傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

夢の腐敗

 わたし、夢がないんです。彼女はため息をついてそう言った。そうですかと私はこたえた。それは夜に見る夢ではなく、「きりんになりたい」とか「マラソンでサブスリーを達成したい」とか、そういう夢でもなく、「将来就きたい具体的な職業がない」という意味にちがいないのだった。どうして夢イコール職業なのかわからないけれども、若者が夢といえばだいたい職業のことだ。

 将来の夢って、持ったこと、なくて。彼女は小さい声で言う。まるでそれが恥ずかしいことみたいに。私は説得を開始する。あのね、私は思うんだけど、夢がなくちゃいけないっていう根拠のない伝染病の源は少年マンガですよ。ワンピースとか。「海賊王に俺はなる」、これが偉いんだ、これが主人公なんだという刷り込み。実によろしくない。唯一の道だとか天職だとか、そんなものが都合良く全員に与えられるはずがないでしょう。ルフィが悪い。「海賊王に俺はなる」が悪い。あなたは悪くない。

 彼女はずいぶんと笑い、私はすこし笑う。彼女は話す。ピアノばかり弾いていて音大に行った友だちがいて、ほんとうにうらやましいです。彼女には彼女の「海賊王」があるんです。専業演奏家として食べていくことは難しそうだと、ほんとうに悔しそうに言うんですけど、わたしはそれすら、うらやましい。歯ぎしりをしてあきらめる夢がほしいんです。

 夢はね、と私は言う。あなたの言うような天職を追うみたいな夢はね、腐ることもありますよ。私の知人にも、あなたのお友だちみたいに、もうこれしかないというくらいのめりこんだものがあって、才能も認められていた人がいたの。海が好きで、海洋系の学部に進学して、学生時代から仕事として海に潜って、卒業後は南の島に移住した。みんな彼をうらやましがっていた。美しい夢を追い、美しくそれをかなえ、美しいところに行く、彼を。

 彼は生き生きとその仕事をして、順調にキャリアを重ねて、現地で家庭も持って、経済的にも困っていなかった。でも彼は突然潜るのをやめた。体力が落ちたとか、怪我をしたとか、そういうんじゃないよ。心がなくなったの。海に。

 心がなくなった、と彼女は言った。そう、と私はこたえた。夢がかなったから気が抜けたんじゃない。業界のいやなところが見えたとか、そういうことでもない。ただある日、目が覚めたら、海になんの関心も持てなくなっていた。

 愛って、ときどき、唐突になくなるんだよ。そうして、それがどうしてかなんて本人にもわからないんだよ。私の好きな詩には、「ほかの人が帽子やステッキをなくすみたいに」って書いてあった。これは男女の愛に関する詩の一部だけど、色恋沙汰にかぎったことじゃ、きっと、ない。私たちは理由もなくドラマもなく衝撃もなく、好きでたまらなかったことに無関心になってしまうことがあるの。

 夢はね、と私は言う。これと決めた将来の夢というのは、美しいけれど、生涯つづく情熱の保証書じゃ、ないんです。夢さえあればいろんなことを検討せず突き進める。みんなからも褒めてもらえる。マンガの主人公みたいに。それがうらやましいのはわかる。だけど、それは消えることもあるの。夢がある人もたいへんなんだよ、実は。

 決め手がないまま仕事を探して、迷ったり試したり調べたり少しずつ好きなところを見つけていったりするのは、面倒くさいよね。あんまり格好よくないし。でもそれはそれで悪くないよ。私はずっとそうしてきて、ずっと幸福だよ。私がそう言うと、彼女は「そんなことより」と書いてあるみたいな表情で、尋ねた。その人はどうなったんですか。

 ほんとうのことを、私は言いたくなかった。彼自身がソーシャルメディアで見せつけるように発信している毎夜毎夜の過剰なアルコールと過剰な笑顔と奇矯な行動について、話したくなかった。何人もの女性との、相手への欲望のためというより撮影への欲望のために接触している写真について話したくなかった。そこから容易に推測される彼の荒れた心について、話したくなかった。これまでの話で彼の名は出しておらず、細部もぼかしているから、プライバシーがどうこうという問題ではない。口に出して話をしたら、今まで目で見て考えて消化していた情報を、今度は自分の耳で聞いて、もう一度受け止めなければならない。私はそれが、いやだった。

 私は嘘にならないようにことばを選び、選んでいることをできるだけ悟られないように同時進行で口に出した。海と関係のない仕事を見つけて愉快にやってるみたいだよ。いつもSNSに楽しそうな写真をアップしてる。