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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

信じてなかった。愛してた。

 信じてたのに。隣の部署で働いている社員が悲痛な顔をし、ため息をつく。その発言により、会社の飲み会の一角が「妻に裏切られた彼をなぐさめる会」としてセッティングされてしまい、私はどうやって離脱しようかと思案する。

 妻は家事をするもの。育休中ならなおのこと。子育て中だからといって自分をないがしろにするなんて裏切りだ。それを諭してやったら実家に帰った。電話にも出やしないで、親が出てきて離婚しろと言う。

 彼が悲痛な顔でつむぐストーリーはそのようなもので、なんの予備知識もなければ彼はその場にいた誰かに叱られていたと思う。いくらなんでも妻に多くを求めすぎだからだ(「床に靴下が落ちている、信じられない」という発言から、彼が家庭にあってはそこいらに衣服を脱ぎ、奥さんがそれを拾って歩いていたことがあきらかになった)。けれどもその場に居合わせた人々はたがいに顔を見あわせ、そうか、うん、そうか、とあいまいに言いながら、どうにかしてその場を離脱しようともくろんでいた。

 なぜなら彼の妻は彼と交際しはじめたことから、徐々に彼をそのような人物に育てあげてきたからだ。つきあいはじめたころ、彼は料理をつくってもらうたびに恐縮していた。せめて洗い物は僕がするんだけどね、などと言っていた。やがて彼女は皿も洗うようになり、何くれとなく彼の世話を焼き、そうして彼は、それに安住した。彼女の意図は私にはわからない。彼はたったの数年で完全にスポイルされた。そうして毎日もらっていた甘い飴を突然取り上げられるかのように、彼女をうしなったのだ。

 信じてたのに。信じてたのに。彼はそう繰り返し、私はその場をそっと抜け出す。いつも斜め向かいの席で仕事をしている同僚も一緒に抜けてきて、そうして、言う。あいつの奥さんは、あいつのこと愛してたからあんなに甘やかしたんだと思うんだよ。他に動機、ないじゃん。あいつも奥さんのこと愛してたわけだよね、まちがった愛ではあるけど、奥さんがまちがいを誘導したみたいな気もするし、なんかもう、俺は、愛とか、わかんねえよ。

 そうだねえと私はこたえる。自分と他人の区別があいまいになって、もう好きとか嫌いとかですらなくて、相手が痛ければ自分も痛いし、お互いの感覚や考えは一致するものだと思いこんでいる、そういう心もちを、私だって知らないのではない。それは子どもの心だ。かぼそい腕で誰かに全力でしがみついている、小さい子の心。それは愛ではない、とまでは、私には言えない。正しい愛だとは言わない。彼に、あるいは彼ら夫妻に何があったのかも知らない。ただ、そのような愛があってはいけないとは、私には言えない。湯水のように甘やかされなければ治らない種類の傷だってある。人間はいつも時系列に成長するのではない。内側に子どもの部分を持ったまま大きくなる。そうして子どもの部分に穴があいている人もいる。大人になってから子どものように愛されて、それで生き延びる人だっているのだ。彼がそうじゃなかったとは断定できない。単なる甘えた男かもしれないけど。

 しかし「信じていたのに」という彼のせりふだけは確実に不当だと私は思う。甘やかされてそれを当然だと思って同じような日々が続くと考えるのは期待だ。期待は信頼と顔だちだけ似ているけれど、もっとも遠く離れた感情だ。彼は妻を信頼していたのではない。妻に期待していたのだ。ずっとずっと甘やかしてくれるものだと。

 つまりさ、大人は期待だけじゃだめなんだよ。大人が大人を愛するには期待じゃなくて信頼がなくちゃいけないんだよ、彼の「信じていた」というせりふとはぜんぜんちがうやつが。私がそのように話すと、マキノにとって、信頼するって、どういうこと、と同僚は尋ねる。

 誰をどんなふうに好きになっても、どんな関係であっても、相手はまったき他者なんだから、中身をぜんぶ把握することなんかできないよね。私たちは他者を、ほんとうには理解することができない。まして自分にとっていいように動いてくれる人なんかいない。信頼しているっていうのは、そのことをよくわかっていて、それでも相手が自分にとってよいものだと思っていることだよ。相手にしがみいていなくって、手を離していて、でも視線はこまめに向けていて、変化する他者としての相手を、きちんと見ていることだよ。相手の変化を無視せず、自分の思考を停止せず、他者の意味のわからなさ、自分にとっての都合の悪さも受け入れて、それでも「あの人は私の特別な人だ、あの人は私にとってすてきな人だ」と思っていることだよ。