傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

頭のなかの寄生虫

 おめでたー?ね、そうでしょ、おなかちょっと大きくなってきたわね?はじめは辛いわよねー。気をつけなきゃいけないことも多いし!

 テーブルをはさんで対面している取引先から裏返った声が浴びせられて私はとっさに当たり障りのない表情をつくる。いいえ、と言おうとして彼女の視線が私から逸れていることに気づく。取引先の女性は私の隣の同僚をまっすぐに見ていた。同僚はほほえみ、取引先がまくしたてるせりふの息継ぎを狙ったように、いえ、と言った。妊娠していません。声がかぶせられる。わたしそういうのわかっちゃうんです、よく不思議がられるんですけど、見ればわかるっていうか、みんながわからないのがわからないって感じで。

 取引先の担当は今の今まで、仕事について少々の無茶を言うことはあっても、それほどおかしな人物ではなかった。仕事中、唐突に、ひゅっと化け物があらわれたように感じられた。ゲームの画面でお化けが出てくるみたいに。その人は自分の出産体験を語りながら、妊娠初期の注意事項について述べつづけた。同僚は端的なせりふを繰りかえし差し挟んだ。わたしは妊娠していません。おなかが大きく見えるとしたらただの肥満です。わたしは妊娠していません。ただの肥満です。

 こんなにも何度も同じことを言わせる人間を私ははじめて見た。取引先の女性はとても陽気に、楽しそうに見えた。上機嫌に見えた。親切な人みたいに見えた。それが私には怖かった。表情、口調、姿勢、目つき、そのひとつひとつに、異常がなかった。私は怖かった。おかしいことを言う人にはどこかがおかしくあってほしかった。

 同僚は私より年かさだ。私にはいつもどおりに見えたけれども、目立っておなかが大きくなったとしても、即「おめでた」と連想するような年齢ではない。そもそも本人が言わなければ友人だって話題にすることではない。ああ、それに、百歩譲ってそれがありうるとして、五回も六回も否定されて元気にはね返しつづけ、笑顔で話しつづけるなんて、何があったら、そんなふるまいができるんだ?

 私は知っている。同僚が結婚して二十年近くになることを知っている。夫婦とも長いあいだ子どもを望んでいたことを知っている。そうして子どもがいないことを知っている。同僚は表情を変えない。儀礼的なほほえみのまま、言いつづける。わたしは妊娠していません。ただの肥満です。

 ごめんね、と同僚が言った。私が口を挟もうとしたのを目で制し、相手が飽きるまで発言させてから、仕事を済ませて帰る途中だった。

 ごめんね、マキノさん。あなたは、あの人のことがまったく理解できなくて、誰かに抗議されるべきだと思ったのでしょう。わたしたちの少なくともどちらかが相手に抗議すべきだと思っているのでしょう。わたしが何か辛辣なことを言って、相手をやりこめるところが見たかったのでしょう。でもね、わたしも自分がかわいいの。仕事上のつきあいで相手のほうが立場が強ければ、確実に勝てて損をしない喧嘩しかしないの。がっかりした?ごめんね。

 私は泣きそうになった。そのとおりだったからだ。同僚ははっきりとものを言う明晰な人で、私はかねがね尊敬していた。少々の損になるとわかっていても戦うほうの人だと勝手に思っていた。でもいつもそんなふうにふるまうわけじゃないのだ。私は言った。ごめんなさい。たしかにそう思ってました。私は悔しかった。それに怖かったんです。あの人のこと。

 怖がる必要はないよ、と同僚は言った。特定の話題でだけスイッチが入ったみたいにおかしくなっちゃう人って、いるから。そしてその底には悪意や怒りが隠されていたりする。あれね、たぶん、ほんとうに自覚がないの。ほんとうにわたしが妊婦だと思っていると、自分では思っているの。そうして親切に妊婦の心得について教えてくれようとしていたの。だからあんなにいい人みたいな顔をしていたの。

 悪意がないんじゃない。おそらく、抑圧されて、本人にも把握されていない悪意がある。だってあのようす、どう考えてもおかしいでしょう。わたし、ああいうの、見覚えがある。ふたを閉じて見ないふりをしている感情があって、その操り人形になっているの。ふたがあまりに重いから、本人に指摘してもわからない。おかしな行動が重なって生活や仕事に支障が出てようやく何かに気づく。感情って、隠すとろくなことにならないよ、どんなに醜くても自分で責任をとって面倒見なくちゃいけないよ、見なかったふりばかりしていると悪意は、脳に巣くった寄生虫みたいに人を操るんだよ。