傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

邪悪

 子の保護者と思われる女性が子の髪をつかみ強く揺さぶった。あんたは、あんたは、と女性は叫んだ。比較的すいた、平日昼間の電車のなかでのことだった。車内には私をふくめ、仕事中の移動と思われる格好をした大人、学生らしき若者、老夫婦などがいた。全員が一斉に、女性と子を見た。女性は子の前に立っていた。子の隣の席に座っていた私には、髪の抜ける音が聞こえた。その音に被せるように女性は叫んだ。親に向かって、親に向かって、親に向かって。
 子への暴力が見受けられ、保護者の精神の不安定さが推察され、しかも駅員を呼ぶ時間はない。したがって赤の他人である私が介入することはやむを得ない。そう判断して母子の間に割って入ろうと立ち上がると、私の足に、足が当たった。子の髪をつかんでいる女性の足ではない。子の足だ。私は子を見た。女の子だ。十歳か、十一歳くらい。きれいな身なりをしてスマートフォンを持っている。冷静な顔でうっすらと笑っている。髪を掴まれ怒鳴られているというのに。
 子は私を蹴ろうとしたのではなかった。私の脚には一度しか当たらなかった。その女の子は、母親の脛の同じ場所ばかりを、繰り返し蹴っていた。私はぞっとした。この女の子は、慣れているのだ。髪を掴まれ引き倒させることに慣れているのだ。自分に暴力を振るう母親は自分の目の前に立つから、だから、脚なら蹴ることができる。そして、母親は、自分が反撃さえできないほどの圧倒的な暴力を振るうことは、ない。この女の子はおそらく、そのことを知っているのだ。そうしていちばん痛いところを狙ってためらいなく蹴っているのだ。興奮も怖れも憎しみさえも感じさせない、「いつものルーティン」みたいな顔で。
 大人と子どもが双方暴力を振るっている場合、止めるべきは大人だ。私はむりやり間に入ったために妙に距離が近いところにある母親の顔を見て、話しかけた。失礼いたします、ご事情はわかりませんが、そのようななさりようは、
 私の台詞の終わりを待たず、女性は私を睨んだ。そして存外冷静な声で言った。この子がわたしを蹴ったんです、親のわたしを蹴ったんです。この子が先にやったんです。そうですね、と私は言った。蹴られて、痛かったですよね。人を蹴るのはいけないことですね。しかしやり返すというのは、
 私のせりふはほとんど聞いてもらえなかった。女性は私への関心を失ったかのように完全に無視し、ボクサーのようにからだの位置をずらして子にふたたび向かい、髪を掴んで揺さぶり、言いつのった。あんたって子は、あんたって子は、電車の中で、やめろって言うのに、スマホなんかいじって、足ぶらぶらさせて、何も言うこと聞かないで、親に向かって、親を馬鹿にして、いつも馬鹿にして。謝りなさい。謝りなさい。
 女の子が言った。お母さんが言うことはいつもおかしい。ぜんぜん理屈が通ってない。乗り換えをスマホで調べることの何がいけないの。電車の席で座って足を動かすことの何がおかしいの。お母さんはおかしい。お母さんは理屈が通じないんだから蹴るしかないじゃん。
 その母親の一瞬の動きに、私は出遅れた。よりひどい暴力が想像され、おそらく私は、それに怯えたのだ。私が停止しているあいだに、学生らしい若者が親子の間に入った。無言だった。親子は動きを止めた。そのおかげでか、何も起きずに済んだ。
 気がつくと向かいの席に座っていた老夫婦が立ち上がっていた。目をそらさずこちらをじっと見ていた。母親はそれにたじろぎ、子から手を離した。老夫婦の隣のスーツ姿の男性が私を見て一度うなずき、移動した。単にかかわりたくなかったのかもしれない。けれども私は、車掌に知らせようとしてくれたのではないかと思った。
 私はその数分の出来事で、たぶんひどく弱っていた。私はおそらく、同じ車両に乗り合わせたすべての人が母子の間の暴力を問題視し、各自の善意をもって対応していると思いたがっていた。目の前の暴力と悪感情の表出は異常事態であって、誰もがそれを止めようとしてくれる。ここはそういう世界だ、暴力が当たり前の世界なんかじゃないんだ。そう思いたがっていた。おそらく。
 ドアが開いた。母親はしばらく身じろぎせず、ドアが閉じる直前に唐突に子の手を引いて降りた。子は平気な顔をしてついていった。とくに抵抗も、反抗もしなかった。追って降りようとした私の目の前で扉が閉じた。閉じたのだからよほどの音声でなければ聞こえないはずだ。それでも、絶叫が聞こえた。親に向かって、親に向かって。謝りなさい。謝りなさい。謝れ、今すぐ謝れ。