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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

僕のために泣いてくれ

 ねえ、マキノさんは、唐突な恋って知っている?つまり、相手のことをよく知らないのに、風景から浮かび上がるように誰かを見つけてしまうようなこと。そうしてその人がわたしの手を取ってくれるようなこと。

 私もそれなりの年月を生きているから、うん、そういうことは、あると知っているよ。私たちはある日、シャワーを浴びようとして奈落に落ちる。台所の扉をあけて炎に焼かれる。人生には稀にそういうことが起きる。意思も状況も関係なしに。

 たとえが不吉だなあ。でも、わたしは、溺れているし、身を焦がしているから、合っているのかしら。そう、半月前に、わたしにはそのようなことが起きたの。そしてわたしたちはできるかぎりの時間を一緒に過ごしているところなの。それでね、彼についてのほとんどあらゆる話を、たったの半月で聞いてしまっているの。生まれ育った家庭の複雑な事情とか、少年時代からの恋愛のひとつひとつとか、今でも解釈しきれない理不尽な経験とか、誰にどのように大切にされ誰にどのように傷つけられたかとか、そういうこと。わたしはそれを聞いてしくしくと泣くの。もちろん、すてきなことも多いけど、辛いことのほうがずっと多いお話だから。

 二週間で?うーん、それはまたずいぶんと、展開が早い。早いけど、ありえないことじゃない。恋は相手との境界線をあいまいにしてしまいたいという欲望を含むものだから。ただ、大人同士としては依存的すぎる。あ、さては、あなたよりさらにずっと若い相手なんだね?二十代終わりの大人と大学生、とか、いいよね、刹那的で風情がある。

    まさか。わたしは年下を相手にしたことって、ない。彼は年上。今年で四十。

 しじゅう!?まじで!?その人、だいじょうぶ?だいぶ退行してないか?うーん、でも、恋はときどき人を退行させて、今まで不足していたものを補わせたりするものでもあるからなあ。

 マキノさん、これから三十分くらい、いい?そう、ありがとう。あのね、わたし、ふられたんだけど。例の彼に。そう、一ヶ月。出会ったその日につきあいましょうと言い交わして、それで一ヶ月。あのさあ、まだ、寝てもいないんですけど。なんなの。前につきあってた女の人のことが引っかかっているうちは「やっぱりつきあえない」んですってよ。あれだけ人生の物語をぶちまけておいて。なんだよ、わたしはゴミ箱かよ。

 そうか、それはたいへんだったね。うん、彼はあなたを、ゴミ箱として使用したんだね。他人を無断でゴミ箱にしやがる人間はたまにいるんだよ。そういう人間にとって、話を聞かせる相手はカウンセラーや腕のいい客商売の人ではだめなんだ。お金を払って聞いてもらうのではゴミ箱にならないんだ。もちろんインターネットの向こうにいる知らない人とかでもだめ。感情をくれないから。自分の話を聞いて泣いてくれる人でなくてはならないの。だから他人の恋愛感情をそれに利用するの。下衆野郎だよ。私は性的行為なんかより、そのような感情的消費をこそ、ヤリ逃げと呼びたい。

 そう、まさに、それ。ヤリ逃げ。わたしは彼の人生に心を痛めた、彼の不運を嘆いた、彼にひどいことをした人たちをひとりひとり呪った。わたしは彼を、好きだから。彼はそれを取れるだけ取って、誠実ないい人みたいな顔で「前につきあっていた女性のことが引っかかっているうちは」なんて言ったんだ。その彼女とつきあってたのって、十年前だよ?たしかに泥沼だったみたいだけど、十年前だよ。なんなの。もしかしてあいつ十年こういうこと繰り返してきたんじゃないの?

 鋭いねえ。私は、そうだと思うな。そして彼はあなたと別れたくなんか実はないと思うな。一方的に感情的奉仕をしてくれる存在は貴重だから、十年のあいだに何人もいたわけじゃないはずだよ。つきあうという体裁を取らなくても自分のために泣いてくれるなら最高だから、そのためにあなたを試しているんだと思うよ。

 うん、そうだね。きっとそうだね。でも、彼はどうして、そんなひどいことを、おそらくひどいと意識せずに、やってしまうんだろう。何が彼をそうさせているんだろう。

 それはたしかに興味深いテーマだね。でもあなたはそれを気にして彼をかまってはいけないよ。それは彼の思う壺というものだよ。そんな下衆野郎のことは、もう放っておくのがいいよ。もちろん気持ちが残るのはあたりまえだけどね。