傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

「尊い犠牲」候補の反乱

 わたしはその映画、気が進まないな。評判がいいのは知ってるけどね、うん、できがいい悪いじゃなくて、おもしろいおもしろくないじゃなくて、わたし、なんていうか、パニックものの映画、観たくないの、あんまり。怖いんじゃなくて、えっと、怖いのかな、怖いのかもしれないな、映画そのものが、じゃなくって。

 パニック映画の登場人物って、危機に際して真実の愛に目覚めたり、家族を守るために力を発揮したり、するじゃない?わたし、あれがだめなんだよね。そりゃあ、危機的状況で愛は燃え上がるんだろうし、家族の大切さも輝くんでしょうよ。そして彼らは危機を乗り越える。

 そういうの観ると、愛して愛されている人間が生き残るべきだというメッセージを、わたしは感じ取っちゃうんだよね。ほら、わたし、家族とかいないし、作る気もないし、ひとりで生きてひとりで死ぬつもり満々でしょ。そういう人間はただでさえ風当たりが強いんだよ、この国の人は無宗教だっていうけど嘘だよ、「家族教」信者が多数を占めてるよ、ぜったい。家族がない、作る気もないっていうだけで迫害されるんだから。迫害っていうのは比喩だけど、比喩じゃないギリギリの感じだよ、実のところ。

 いい年して家を借りるのにも職場を移るのにも保証人を要求されて、それが親族じゃないととやかく言われて、カネで保証人を引っぱってくればいいところを探せば今度は緊急連絡先とやらを要求されて、それが親族じゃないとまたなんか言われる。めんどくせえ。女だとよけいに、日常生活でもとやかく言われる。父か夫か子に属していないとまともじゃないとでも思ってるんじゃないのか。あいつらの中で父も夫も子もないわたしの人権は目減りしてるんじゃないのか。冗談じゃねえや。

 生みの親を愛さなくてなにが悪い。わたしが十代のころ「あなたも大人になればわかる」って言ってた連中に見せてやりたいよ、二十年後も同じように、いや、ますます確信をもって、親なんか愛せないですねと断言しているわたしを。「自分が親になればわかる」とか言うんだけどねそういう連中は。いいかげんにしろ。

 わたしは愛を否定するつもりはない。わたしだって誰も愛していないのではないし、もちろん、愛してなくたってぜんぜんいいと思う。どちらにしても、家族とその候補である恋人を愛として、それを必須とするような連中を、わたしはぜったいに肯定しない。

 ねえ、フィクションの中の災厄でも人は死ぬでしょ、尊い犠牲とか出るでしょ。わたし、フィクションの多くが採用している価値観のなかでは、真っ先に尊い犠牲になっちゃう人だと思うんだ。だって、家族またはそれに準ずる者への愛の力で危機を乗り越える世界にあって、家族またはそれに準ずる者のない人間は危機を乗り越えられずに死ぬべき者でしょうよ。

 フィクションにあってわたしは、地震で逃げ遅れて最初に死ぬ人間、テロリストが見せしめに殺す人間、怪物の一撃目で潰される人間。どんなによくできたフィクションでも、自分がごみみたいに死ぬ「愛に目覚めない人間」として処理されるであろう世界を、娯楽としてわざわざ摂取する必要はないよ。わたしは彼らの世界では、テロリストの人質になった大勢の人々のあいだからてきとうに選ばれて頭に紙袋をかぶせられてカメラの前で頭を打ち抜かれる役回りの人間なんだから。

 たかが映画、たかが小説、でも、それが受けるのは、みんなの中にある価値観や願望を写しているからだとわたしは思う。多くの人が、危機にあっては愛に目覚めるべきだと思ってる。愛し愛されている者が生き残るべきだと思っている。家族のない人間は家族のある人間より価値が低いと思っている。おあいにくさま、わたしは、誰に愛されていなくても、生き残ってやる。

 わたしはわたしの命を誰にも格付けさせてやらない。他人がわたしを、愛し愛されていないから価値が低いと見積もっても、それを内面化してやるつもりはない。けれどもわたしは彼らの価値観に基づくせりふを大量に浴びてもまったく影響を受けないほどには強くはない。そういうものに接したらやっぱり気分が悪くなる。だから、主要な登場人物がにわかに愛に目覚めたり家族を思って危機を乗り越えたりするフィクションは、避けてるの。

 へえ、危機にあって愛に目覚めたり家族を守るために立ち上がったりしない映画?それなら、わたしも楽しめるかな。いいよ、観に行こう。