傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

やまとなでしこの声

 お高く止まって相手を品定めしな、と私は言った。そして粗雑に、凶暴になる。あなたと同じくらい美しいけれど凶暴な友だちがいてね、ふたりで話してて知らない男から「お綺麗ですね」って言われたときなんか、一瞥だけくれて、「存じております」って返してたよ。「存じております。以上」ってかんじ。その男、すごすご帰っていった。
 そうすればいいと私は言う。できないとわかっていて言う。案の定、彼女は眉をわずかに寄せ、それからあいまいにほほえむ。可愛い、と私は思う。満面の笑みより目を伏せたほほえみが似合う。でも、と彼女は言う。似合う、と私はまた、思う。「でも」とか「だって」とか、そういうせりふがこの人には、とてもよく似合う。いちばん似合うのは「はい」だ。女の私が聞いてもちょっとぼうっとしてしまう。
 彼女は学生時代からたいそう頻繁に男たちに口説かれていた。それは容姿のせいだけではなかった。なぜ言い寄られるのか、私にはよくわかっていた。
 こんなにもやさしげな声を出す人を私は知らない。彼女の声にはほとんど無尽蔵のやさしさが感じられる。そうしてよく観察すると、声そのものもさることながら、仕草や表情とあいまっていっそうの効果を発揮している。
 やさしさは愛じゃない、という、いけすかないほどキャッチーで正しいせりふがある。やさしさは愛ではない、もちろん。やさしさは受動の表明だ。受け入れの約束だ。現実にはもちろん、無限に人を受け入れることはできない。だから彼女はやさしくするのではない。やさしさを感じさせるのだ。自分を受け入れてくれるにちがいないという思いをかきたてさせる様式が、そこにはある。彼女はそれを完璧に身につけている。ほとんど彼女自身の皮膚のように。
 男の妄想のなかの女らしさ。私はそう言い捨てる。私の知らないくっだらない男の、妄想のなかの女らしさ。つまりあなたの父親が、すでに十二分に従順なあなたの母親よりもなお自分の理想に近い「女らしさ」をあなたに刷りこむことに成功したから、あなたの声はそんなにやさしそうなんだ。ねえ、私はだから、あなたに同情なんかしないよ。
 彼女は若いうちに結婚して子を持った。私と同い年だから、今では中年だ。それなのに、いまだそこいらの男からやたらと好きだ好きだと言われる。断ると嫌がらせをされる。そのうえ夫の浮気に悩んでいる。そんな人に対して、私は少しもやさしくない。自分の耳をとおしても毒々しいとわかる声を垂れ流す。ねえ、あなたを好きだ好きだと主張する男たちが、あなたにふられたら怒りだしたり、嫌がらせをしたり、結婚したら浮気するのはどうしてだと思う。
 それはね、あなたがあなたのお父さんの望んだとおりの、「受け入れる女」の様式を身につけているからだよ。あなたは離婚なんかしない。賭けてもいい。浮気されてよよと泣きくずれる。すると夫は満足する。あなたはそういうふうに育てられた。そして自分を育て直す気にはならなかった。だからあなたはとってもモテるの。そしてそれに苦しんでいるの。それはあなたのためのものじゃないから。男たちのためのものだから。
 じゃあ、と彼女はつぶやいた。マキノは、わたしが離婚して、仕事を探して、マキノの大好きな自立っていうのをすれば、満足なわけ。その声はまだやさしかった。滅多に聞くことのない彼女の一人称を、私は耳に焼きつける。それから、まさかあ、と言う。仕事なんかまったく問題じゃない、しなくて済むなら一生しなくていい、でもあなたは、遊んで暮らせるお金があったって、離婚なんかしない。
 そうよ、と彼女は言った。割れた、と私は思った。はじめてその声はひび割れ、誰かに貼られた皮の下からむきだしの肉を見せていた。そうよ、わたしは、誰にも愛されないのが怖い、誰にも愛されないなら死んだほうがまし。私はほほえんで尋ねる。その「誰か」は、男だけなんだね、あなたにとってたとえば友だちのちょっとした情なんかは、愛じゃないんだね、彼女だとか妻だとかいう形式で男に所属していることが愛で、それがないと、ものすごく怖いんだね。それなら浮気されてよよと泣いて、そこいらの男に言い寄られて嫌がらせされながら生きていくしかないよねえ。
 私は口を閉じる。目をそらす。視線を戻すための勇気がコンマ数秒、出なかった。破れた皮からめりめりと彼女が、彼女自身が出てくる。生々しくて身勝手で私に怒りをぶつける、彼女が。そんなファンタジィを、私は信じていなかった。彼女はこんなにも不親切な私にも、なにごともなかったようにまた、やさしげな声をかけるにちがいなかった。そのエンディングをすこしでも、先に延ばしていたかった。


for 「大和撫子の声」その1 その2

*本エントリでの改変は槙野さやかによるものです。

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