傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

その苦しみは誰のもの

 彼女が離婚を告げると夫はいやだという。離婚する理由がないという。彼女は不審に思いながら説明する。だっておなかの子はいなくなっちゃって、私はもう産めなくなったのよ、私の不注意で。事故は不注意じゃないし、そういう問題じゃない、と夫はいう。子どもはほしかった、でも子がないからといって夫婦をやめるなんておかしい。そのように訴える。
 子どもはほしいって最初から言ってたし、じゃあもっと若い人のほうが確率が上がると忠告したのに私と結婚して、私はこの人を愛しているけれども、理解はできないな。彼女はそう思う。離れて三ヶ月もすれば私がいないことに慣れるし、一年もすれば感情も変わるだろう。
 そう思って彼女は夫と別居した。仕事では人がいやがることをよく引き受けるようになった。価値がないと思われている作業をしたかった。彼女の消費は極端に減った。粗食になって、なにも欲しいと思わなかった。痩せも太りもしなかった。眼窩がすこし窪んで老けた。化粧品を買わないからかなと思った。気にならなかった。週に一度這いつくばって雑巾で床を拭いた。別居先は畳の毛羽がよく抜ける部屋だった。
 カネ、ないの。突然尋ねてきた彼は無遠慮に彼女の部屋を見渡して訊く。仕草が粗野で口の悪いこの幼なじみは、それなのにどうしてか卑しさを感じさせない。昔からだ。けれども近所の人々は彼を卑しい卑しいと、煎じつめればそういう意味のことばかり言っていた気がする。あの家は外国から嫁さん買ってきて、だから息子もほら、ねえ。あの子どうもあれらしいわよ、男が好きな、最近よくテレビでも見るでしょ。へえ、やっぱり複雑な家庭だと、ねえ、たいへんねえ、手術とかするのかしらねえ。何で稼いで?やだあ、あはは。
 彼の母は極東の人ではなく、彼はその特徴を色濃く受け継いでいて「日本語うまいね」と何度言われたかわからない。彼はへらへらと笑ってたいていのせりふを受け流していた。一度だけ、流さなかったところを見た。お前を産んだのって買われてきたガイジンだろ。そう罵った相手をうっそりと見上げて彼はこたえた。お前の母親もそうしないと食えないから嫁やってるんじゃね?だからよその家も同じだと思うんだろ。
 彼は殴られて、殴りかえして、乱闘はそれきりなのに、彼ひとりが猛獣みたいに扱われるようになった。彼も彼女も十五歳だった。きみは悪くないと彼女は言った。母親が買われたガイジンなのはほんとだと彼はこたえた。ほんとのことなのにやりかえすのは俺がそれを恥ずかしいと思ってるから。俺が俺の家と自分をサベツしてるから。
 大人になるすこし前に彼は一度いなくなり、連絡をよこしたときには彼も彼女も生まれた町にはいなかった。ときどき会って話した。とても仲が良いわけでもないのに、いつ来てもいつ会っても当たり前のようだった。
 彼はいつものへらへらした顔で訊く。なんで別居なの。旦那、愛してねえの。もちろん愛してると彼女はこたえた。金ないわけじゃないのになんでこんなボロ屋にいんの、と彼は尋ねた。ここでいいのと彼女はこたえた。
 彼はどうでもいい話をした。彼女は簡潔に、彼女に起きたできごとを話した。ふうんと彼は言った。コンビニの袋ごと持ってきた缶ビールを缶のまま自分で飲んでいた。しばらく別の話をした。彼は壁にべったり背をつけて片膝を立てた格好のまま、無表情で言った。あんたはもう苦しむな。俺は苦しむ。コワイキモイって指さされて石投げられて誰とも一緒になれないで苦しんで生きる。だから、あんたはもう苦しむな。
 理屈がぜんぜんとおってないし、だいいち、私の苦しみは私のものだよ。彼女はそうこたえて、それから、私は苦しみたかったのか、と理解する。私は苦しみたかった、私は苦しまなくっちゃいけないと思っていた。そうつぶやくと彼は鼻で笑って言った。もちろん、あんたの苦しみはあんたのものだ。そりゃあそうだ。だから頼んでるんじゃないか。
 なんできみの頼みごとはいつも命令形なわけ。彼女が訊くと彼はそれを完全に無視してへらへら笑う。さっきの、と彼女は思う。久しぶりに素の顔が出たなと思う。あの無表情が彼の素顔だ。「自分をサベツしてる」彼の。
 あんたは手遅れじゃない。唐突に言い残してそのまま、彼は帰った。彼女は思った。私は手遅れじゃないんだろうか。彼は手遅れなんだろうか。誰かの目に負けて自分を貶めて、その苦しみを手放せない手指は、もうすっかり癒着してしまったのだろうか。だから赤の他人に頼むのだろうか。たとえば私に、その苦しみを手放せと。