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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたの不適切なみじめさ

 久しぶりに電話をかけてきた知人から、転職後の近況の話を聞いた。十分ばかり具体的な話をしたあと、彼は自嘲して言った。悪くはない、ああ、悪くはないんだと思う、でも前の職場で挫折して、もうあいつらとは生活レベルから何から違うんだって、そう思ったときに感じるみじめさはなくならない、というか、一日の三分の一くらいは、みじめな感じがする。私はそのせりふを聞いて、そうだ、こういうこと言う人だった、と思い出す。こういう、私に理解しがたい世界観を持っている人なのだった。私は、生活にレベルがあるなんて、何をどう考えても理解できない。お金があればいいというものでもないらしいから、よけいにわからない。「生活レベルから何から」の「何から」もよくわからない。その他の何がそんなにも異なる、しかも上下に異なるというのだろう。
 階級みたいなものを、彼はいつも意識しているみたいだ。私にはその階級が見えない。彼は年に一度とか、それくらいの頻度で電話をかけてきて、話したいことだけをべらべら話す。私はそれに対して言いたいことを言う。そのたびに私は、私に見えない階級について想像し、挫折する。そんなもの、どうやったらあると思いこめるのか、まして自明の存在みたいに話せるのか、と思う。そしてスマートフォンの向こうの彼に向かって、階級の存在を否定する。私の世界にはそんなものはない。
 私はあらためて自分の立ち位置を宣言する。マキノはいつもそうだと彼は言う。そうともと私はこたえる。すると彼は尋ねる。マキノはさあ、みじめになることとか、ないの。何を言ってるんだと私は思う。即答する。あるに決まってるじゃないか。ただ、私のみじめさは誰かと比べて生まれるものじゃない、あなたみたいに仕事を変わったとか、そういう原因があって起きるものじゃない、私の状況にかかわらず、その感覚はときどき私を訪ねてくる。ただただみじめでさみしく、明日世界が終わればどんなにか楽だろうと思う、けっこうしょっちゅうそう感じる、ほんのときどき、その苦痛のために日常生活がうまくいかなくなる、私はそいつと長いつきあいだし、だからみじめさについてはよく知っているつもりだよ。
 わかんねえなあ、と彼は言う。なんもないのに急にものすごい落ちこむって、なんかの病気じゃねえの、メンタルヘルス的な。そうかもねと私はこたえる。でも私に言わせれば人に上下をつけるほうがよほど病的だよ、私は自慢じゃないけど、人から「あなたはみじめである」という意味のせりふを面と向かって口に出されたことが複数回あるよ、だからわりとみじめな状況や境遇にあった、あるいはあるんだろう、でもそういうものは私をそれほど苦しめないんだ、実際的な空腹や寒さなんかはもちろん感じるけど。
 私がそのように話すと、乞食の顔、と彼は言った。私もそのせりふを思い出して、何秒かふたりで笑った。私はいい大人になった今でも、食べ物とか中古の家具とか、美術館のチケットとか、いろんなものをもらうけれども、学生のころはもっと頻繁にもらっていた。私はそれをいいことだと思っていた(今でも思っている)。だから、お酒の席でのちょっとした自慢話のつもりで、観光地のバスターミナルに立っていたら知らない老婦人が乗車券をくれた、という話をした。そうしたらその場にいた知人のひとりが突然無表情のまま「乞食の顔をしているからだ」と断定したのだ。まったく酔っていないように見えた。
 彼は言う。あのときマキノ、なんか小説を引用して、食い物を恵まれる乞食でかまわない、そういうのは私の定義では愛のうちに含まれる、とかなんとか、言ってたよね。私は思い出して口にする。「私は真理と愛情の乞食だ、白米の乞食ではない」。
 このせりふに同意する人も多いのだろうと思う。でも私は白米の乞食でぜんぜんかまわないし、食べ物を投げる相手はかわいそう、もしくはかわいいと相場が決まっているので、それは私の定義では愛に含まれるし、愛をもらいたい相手からだけもらう権利が私にはある。そういう意味のことを、たしか言い返したのだった。でも、けんかとして見たら、そんな長い反論より「乞食の顔」というせりふのインパクトのほうが有効だな、と今になって思った。表情、タイミング、声音、すべてが完璧だった。
 若かったころのばかみたいな会話について話して笑って、それから私は言う。今でも、私、「白米の乞食」でかまわない、少なくとも「白米の乞食」には、環境に簡単に影響されるようなみじめさはないよ、ねえ、あの小説の人物は、「白米の乞食」のなにがそんなにいやだったのかな、あなたになら、わかるんじゃないかしら。