傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

人間性をうしなうためのほとんど確実な法式

 彼は早めに結婚し、二十代のうちに離婚して、それからというもの彼女をとっかえひっかえするようになったのだそうだ。離婚から数年たって現在に至るまで、私は何人かの共通の知人から、彼に関する派手な、あるいは醜い噂を聞いていた。誰かがその話をするたびに、そうかい、と私はこたえた。たいして仲良くもない知人が他人の彼女を横からかっさらおうが、その彼女を三ヶ月で捨てようが、「基本的には二十代前半がいいけど尽くしてくれるなら三十までOK」だろうが、どうでもいいことだ。だって彼は私の友だちではなかったし、彼にまつわる噂に登場する人物も誰ひとり、私のだいじな人じゃなかった。彼はもともとそんな人間ではなかったと評する人もあったけれども、彼がどんな人間かを私はそもそも知らなかった。学生時代のあいまいな人間関係の端のほうにいたようないないような、その程度の間柄なのだった。
 彼をふくめた集団で久しぶりに顔を合わせる機会があった。彼は楽しそうに立っていた。外見は二十代のころの姿をそのまま順当に加齢したという印象だ。私は何人かの知人とあいさつし、それから彼を見つけ、立ち居振る舞いと表情を何秒か観る。よく統制されている、と思う。細部にわたる身体的表現の統制により人は目の前の人を誘導し、暗に命令することができる。「空気読め」というやつだ。彼はそれに長けている。そして私は多くの場合それに従うことがない。「空気読めない」人で結構だと思う。
 私からすこし離れたところで彼は話している。彼の話している内容ははじめて聞くものなのだろうけれど、そんな気はしない。彼の話しかたにはいくつかのバリエーションがあり、重要なのは話の内容ではなく、話しかたとしぐさなのだろうなと、私は思う。そこにはある種のエネルギーがあり、常にポジションが明示されている。彼はいつも発するエネルギーの総体を相手よりすこし大きくしている。とくに相手が、女である場合には。そして私は彼が男性と話しているときの印象をほとんど持っていない。
 一人の女が私たちのほうへやってくる。そうして言う。あいつ図々しくこの場に来ちゃってるけどさあ、私、あの男がどれだけのでたらめを並べたか、みんなにばらしてやりたい。離婚直後にあたしを口説いてきたんだよ、もちろん、なんにもしてないけど、なんていうの、三十手前の彼氏持ちの、でも結婚はぜんぜん具体化してません、みたいな状態だとちょっとぐらついちゃうようなカードをすごい勢いで切るの。そしてそれがほとんど嘘なの。それはもうみごとなくらい、ちょっとした不安につけこんだりちょっとだけ気分を良くさせるような、ピンポイントで効果的な、嘘なの。
 そのときの口説き文句ってそんなにひどいでたらめだったの、と私は尋ねる。そりゃあもう、と彼女はこたえる。私はすこし笑う。当てようか、と言う。私がいくつかのシチュエーションやせりふや行動を口にすると、彼女は最初黙って、それから言った。いくら手当たり次第だからって、まったく同じせりふが入っているというのは、どういうことなの。マキノとあたしはけっこうちがう人間だと思うんだけど、せりふ使い回しして口説いてたわけね、それでなおかつそれなりの説得力があるとあたしは感じたんだけど、それって、どういうことなの。
 私はこたえる。チャート式なんだよ。彼にとって女はある種の属性の集合、ラベルの集合なんだ。そしてラベルの集合を特定の状態に追い込むと彼にとって都合の良いことをしてくれる。彼はそのような感覚を持っているから、似たタイプの女が似たタイプの状況にあるとほとんど同じふるまいをするんだろうと思うよ。そしてその方法をものすごく努力して洗練させたんだと思うよ。
 彼女はもはや憤っておらず、気味悪そうに彼を振り返ってつぶやいた。そう思うと、なんか、うそ寒いね。相手を人と思うから怒りが沸くんだよと私はこたえて、話す。私は思うんだけど、彼の世界には、彼しかいない。女は装置で、もしかすると、男だって装置かもしれない。彼に「友だち」役割の男がたとえいたとしても、あの調子で何を話すんだろうね、女の口説き方の話とかかな。他人を装置として、機能の集合として扱って、いつもそれを操る側でいようとする者は、いつか報いを受ける。そういう邪悪さは必ず本人に返ってくる。ほんとうだよ。彼は少なくともこの数年、女を人として扱っていないみたいだから、そろそろ本人も、何かの機能の集合体みたいな存在になってきてるんじゃないかな。あなたの言うとおり、うそ寒いことだねえ。