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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

やさしさのための技術とその運用

 人にやさしくしたいんだけどどうしたらいいかねえ。なにそれ。いや、だからさ、やさしくしたいんだけど、具体的にどうすればいいか考えると、悩む、という話、相手と状況は考慮する、でも内面まではわかんなかったりするでしょ、だってたとえば私が今やさしくしたい相手は、ふつうの顔してるけど実は私を心底憎んでいるかもしれないし、ひそかに激しい愛を持ってるかもしれないじゃん。極端だな。極端に言うと、わかりやすいでしょ。
 そうだなあ、わかりやすさのための技術はけっこう出回ってるけど、やさしさっていうのは、わりとむつかしい、たしかに。ね、基本はハグでしょ、とか思うけど、身体接触って強力な代わりに相手を選ぶわけ、しかも抱きしめても抱きしめても届かないものはあるわけ。そりゃそうだ、やさしくしたい相手が、触っていい人だとしても、それで終わりじゃないよね、同じ相手でも状況や気持ちや方法によっては不愉快にさせたり、傷つけたりするよね、すごく難しい。
 人からよしよしされること自体がよくわかんない、別にいやじゃないんだけど、ぽかんとしちゃう、みたいな場合もある、気質として皮膚接触を求めていない場合もあるけど、経験不足で理解できない場合もある、身体を通じたやさしさの受容には一定のリテラシと「溜め」が要ると私は思うな、だから、経験が足りなさそうな相手にやさしくしたかったら、まずどんどん撫でて、撫でられる経験を積んでもらう、一定ラインを超えたら「撫でられるのはいいものである」とわかってもらえる可能性がある、したがって、相手が不快でないようならどんどん撫でるといいと思う、いちいち抱きしめるとよいと思います。
 でもさあ、それができる関係性って、かなり限られるでしょう、まあ、私も女友達同士で抱きあったりするけど。そのとおり、相手によってはこれは使えない、かなり限られる。でしょう、だからこそ私たちはなるべく多くの他の手法を持っているべきなんだよ。言葉って、単体では意外と無力だったりするしね。そうそう、言葉、意外とだめなんだよ、とくにとても強くやさしくしたいとき、つまり相手が深いダメージを被っているようなときには。言葉をかけるという行為自体は有効だからどんどんやるといいけど、横に立っていることのほうが端的に「効く」ことも多い。
 私の知りあいのおばさん、私がうんと若いころから知ってて、もちろん私がもういい年だって知ってるんだけど、いまだに貧乏な女の子だと思ってるようなところがあって、あらあら久しぶりねえ、の、ねえ、のあたりでもう食べ物を差し出してるんだよ、あらあら、のあたりで鞄に手を入れてなんか出してる。なにそれかわいい、そのおばさんが。ねえ、かわいいでしょ、私ね、あのおばさんに食べ物もらうの、けっこう好きなんだ、おばさんだって頭では私がもう食べるのに困ってははいないってわかってるだろうに、その無条件の反射みたいな、小さくて軽くて無償の感じが、私は好きなんだ。
 誰かにやさしくするためにいつもかばんにちょっとしたお菓子が入ってるのって、笑い話みたいに言われるけど、私は、なかなかいいやり方だと思うな。まったく価値を認めない人もいるし迷惑だって言う人もいるけど、迷惑になるとしても、たいしたものじゃない。うん、たいした迷惑にならないというのも大切だ、フェイルセーフとして。
 私が五年前に母を亡くしたときのことなんだけど、お通夜の前の取り急ぎの弔問に来てくれた友だちが、儀礼的な贈答品のほかにハンカチを二枚置いていって、あれはすごいと思った、たくさん泣くでしょうって、そう言ってた、ハンカチがさ、新品とかじゃないの、ガーゼ地のやわらかいやつで、よその家の柔軟剤のにおいがうっすらして、そうか、たくさん泣いていいんだ、って思って、あれはすごかった、天使のしわざかと思った、人にやさしくする技術に長けた人だと思った。
 そういう個別の技術を、私たちはたくさん持っていよう、あと、使うのをあんまりためらいすぎないようにしよう。そうだね、そして相手と状況を見つつもなるべくたくさん、ばしばし使っていこう、やさしくしているつもりでも相手に通じないことも多いし、役に立たないこともいっぱいあるし、誤解されることもある、でも、まずはできるだけ多くの技術を持って、果敢に運用していこう。私、とりあえず、もうちょっとしたら、何かというとお菓子を差し出すおばさんになることを誓う。今からやればいいじゃん。いや、おばさんなら誰がしてもいいというものではないんだ、まだちょっと早い、修行が足りない。