読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

私の空想上の皮膚のいくつかの場所

 移動中、三年会っていない友だちからメールが入って、携帯情報端末ってほんとうにすばらしいなと思う。彼女はずっと家にいて、一人で出てきて私と話す、あるいは子を連れてきて話すといったことはない。事前に約束することはない。何かの用事で一時間なり二時間なり彼女が外出する時間ができて、ほかに会う人がないとき、当日に連絡が来る。十年とすこし前、結婚の直前からそんなふうで、そのころから累計で三度会った。
 彼女が家を出ないのはなぜだか私は知らない。子どもはひとりで、いま小学生だ。子を連れてくることも、私やほかの友人は歓迎する。彼女のほかに子の親がないのではない。結婚相手がいる。けれども彼女は家から出ない。だから出ない、のかもしれない。私は訊かないし、彼女は話さない。彼女が一度、私やほかの友人たちとの旅行にあわせて家族旅行を企画してくれたことがある。彼女たち三人の家族で取った部屋から二時間だけ私たちの部屋に来た。そんなことはもう起きないのだろうと思う。それはとても特別な、努力を要することで、大きな負債を払ったのだろうと、そういう気がした。
 待ち合わせ場所にいると、彼女はやってきた。急でごめんねと言うのでぜんぜん、とこたえた。ほんとうのことだ。私は、目の前の彼女にとっての自分やほかの友だちが、かつてはともかく、結婚後は、時間をやりくりして会う相手ではないことを知っている。ずっと会えない可能性もけっこう高いと思っている。そういうことを、若いころは避けたくてたまらなかったけれども、今では起こりうることだと感じている。
 私はもう、私が好きな人たちが私に連絡をくれなくなってもいい。毎日してくれてもいい。毎日時間が取れるかはともかくとして、連絡自体はぜんぜんかまわない。どんな話をしてもいい。どんな話をしなくてもいい。私をぞんざいにあつかってもいい。私を嫌いになってもいい。私を忘れてもいい。
 それで私の感情が変わらないのではない。ときに、私は泣く。私は悔やむ。私は自分に価値がないように感じる。泣いたり悔やんだりするのは自然なことだ。好きなだけすればいいのだ。それは私の領域だ。そして私の価値は本質的に他人が決めるものではない。私はあるときから他人の決める価値なしに生きてよいと決めている。無根拠に、敬虔に。
 だから私は誰にどのように扱われても危うくはならない。それによる感情は私に致死性の傷を与えない。与えかねないのはただ、相手が生きていないときだ。次によくないのはその人が生きていない状態に近づいてしまうときだ。なぜなら私の好きな人たちは私の世界の一部であるからだ。どのような愛にもそうした性質があると私は感じている。愛は一方的な他人への思いこみだ。皮膚の一片が他人のそれとつながっていて切るともとの自分ではなくなってしまうという、思いこみ。
 私はいろいろな場所のいろいろな大きさの皮膚がいろいろな深さで他人とつながったみたいな気でいる。つながっている皮膚が切り取られるのはその人が私を嫌うときではない。その人が私を忘れるときではない。私は、誰かが私を好いて私を覚えていてくれるからその人を愛しているのではない。つながった皮膚を痛めつけるのはただその人が損なわれたときであり、皮膚が引きちぎられるのはただその人が世を去ったときだ。
 私は目の前の友だちを見る。もう会えないかもしれないなと思う。そうして言う。ほかのみんなも会いたがってたよ。よろしく伝えてって。また来てって。娘さん連れてきてって。みんなでどっか行こうって。老後でもいいよ。私たちずっと待ってるから。老後なら、とは、彼女は言ってくれない。あいまいに笑っている。
 駅の改札で、私は手を振る。彼女の人生から退場する。再入場があるかはわからない。そんなことは私をたいして傷つけない。私はただ、私の好きな人たちがみんな、元気で生きていてくれたらそれでいい。私のいろいろな場所のいろいろな大きさのいろいろな深さをもつ皮膚のつながりを、引きちぎっていかないでほしい。
 けれどもそれはいつか必ず起きる。誰もがいつか生きることを停止する。私は長生きするだろうから、きっとたくさん、皮膚がちぎれていくんだろう。けれども、と思う。けれども私は、自分の好きな人たちがそれを許すなら、その人たちが生きているあいだずっと、好きだよと言おう。好きだよと言う相手がいればいるほどたくさんの皮膚が引きちぎられていくのだとしても、私は人を好きになり、そのことをいつも伝えよう。その苦痛は私に必要なものだ。そう思う。根拠はない。敬虔に、無根拠に、私はそう思う。