傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたはもうそれを求めなくていい

 この一年はねえずっとこうなのよお、なんかねえ、ラク、その前はちょっとした浮き沈みがあったんだけど、まああんまり気にしなかった。私の正面に座って彼女は言う。私はひどく驚いて彼女をじろじろ見てしまう。すんなりと長いきれいな手足をして腫れたように膨れても枯れたように縮んでもいない。彼女は苦笑して言う。不躾ねえ、みっともない。私はもぐもぐといいわけを噛んで目をそらし、目の前にいる人を見ないのもおかしいのでもう一度見た。彼女は愉快そうにけらけら笑った。
 知りあって十数年になるけれども、会うたびに膨らんだり縮んだりする人だった。そしてしばしば長期間会うことがないのだった。縮むときのようすがほんとうに切実だったから、そのあいだ無事でいるか気を揉んだ。縮んだときの彼女は不吉な記号みたいな骨の浮いた手足をぎこちなく動かし、こぼれそうな目の幼子みたいな老婆みたいな顔をして、ひどく陽気だった。
 彼女はいい人だった。誰にでもやさしくてこまやかで気が利いて丁寧だった。私ははじめのうち、彼女の親切をただ享受していた。ときどき激しい緊張感が伝わってくるので、だんだん心配になった。私は彼女の重要人物ではないのに、私やほかの(同じように重要人物でない)友人たちの機嫌が損なわれることを、彼女はひどく恐れているように思われた。その場の空気が彼女にとってだけすぐに曇るガラスで、だからずっと磨いているような、そんな感じがした。私は控えめに、それはガラスではない、というようなことを言った。けれども気を遣わないということは彼女にとってほとんど苦痛であるらしかった。
 もちろん、彼女はいつもそうしていた。私はやがてそれを理解した。自分にとって重要な人物の前にあれば、彼女はさらに細心に「ガラスを磨く」のだ。そいつの無遠慮な息で曇るガラスを。彼女はときどき、どのように汚れたガラスをどのように磨いたか、磨ききれなかったかを話した。私はなんだか泣きたくなった。いつでもやさしくてこまやかで気が利いて丁寧だなんて、ひどい話だと思った。私がそのような気持ちを伝えると彼女は困ったように笑っていた。
 久しぶりに会った彼女はもう膨らんでも縮んでもいなくって、顔つきまでちがって見えた。私はしばらく狼狽したあと、この人はいまガラスを磨いていない、と思った。そうして尋ねた。何があったの、とってもいいかんじだよ、すごくすてきだよ。すると彼女はこたえた。あのねえ私はあなたの言う「ガラス磨き」をしていた理由がわかったの、私ね、そうすればみんなが私によくしてくれて私を嫌わないだろうって思っていたの、でもよくよく考えてみたら、ガラスを磨いたところで誰もが私によくしてくれるわけはないのだし、みんなに好かれなきゃいけない理由はないのよ。
 私はそれを聞いて眉をたがいちがいに上げ、アメリカ人みたいに肩をすくめて、首を振ってみせた。だってそんなことは、私もほかの友だちも何年も前にさんざっぱら言ったことだからだ。彼女がさまざまな他人に快さのようなものを与えつづけようとするのは、相手からのよい反応がほしいからだった。アテンションも評価も情愛も恋愛のようなものもそこには含まれていた。彼女はそれを求めて、誰にでも良いものをあげようとする。その状態に耐えられなくって、ごはんをぜんぜん食べなかったりものすごく食べたりする。
 私は昔、ごはんを食べなさすぎたり食べ過ぎたりすることについての本を読んだ。そうしたらその中にすごくわかりやすく彼女のような心についての説明があった。私は彼女の前でその本を開き、延々と説明した。自分の身に起きている現象にあてはまる図式が書かれた本を目の前で広げられてひとつひとつ説明されても、彼女はただ当惑していた。なんの話をしているのかわからないとでもいうように。
 もう一度かぶりを振ってから、私はにやりと笑いかけた。彼女もにやりと笑いかえした。私たちはたがいのかつての若さに、たぶんたがいに照れていた。若かったころの私は、ほんとうのことを言って聞かせればいつか理解してくれると思っていたのだ。なんとまあ愚かなことだろう。今でもかなり愚かではあるけれども。
 気づいたか。私は言った。気づいた、と彼女はこたえた。ありがとうと私は言った。あなたはきっとそれを認識するのが、すごくいやだったと思う、でも勇気を出して認めてくれたんだと思う、気づくってそういうことだと思う、そうしてくれて、ありがとう、あのままどこか遠くへ行ってしまわないで、私のまえにまたあらわれてくれて、ほんとうにありがとう。