読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

家族たちのためのうつくしい休日

 職場の忘年会でたまたま隣に座った男が言う。お正月は帰省するんでしょ、どこでしたっけ。ほんとうは不愉快な質問だけれども、もう慣れているから表情どころか内面もほとんど動かない。東京ですと彼女はこたえる。別の誰かが言う。じゃあすぐ帰れるじゃないですか、新幹線の予約も要らないし。なんにも要らないですねえと彼女は話す。何代も前から江戸っ子で、田舎ってものがないんです。話しながら別の話題にそらす隙を探す。誰かと誰かと誰かが言う。それでも美味しいもののひとつも持っていきなさいよ。そうそう、ふだん好き勝手やってるんだから、お母さんに楽させてあげないと。うちの娘なんか、帰ってくるとなんにもやりゃしないよ、一応結婚してるから、ふだんはやってるはずなんだけど。みんなが笑う。彼女も笑う。話をわずかにずらす。みんなの話がずれていく。
 嘘は面倒だと彼女は思っている。できるかぎり事実だけを口にし、しかも無難で問題のなさそうな印象を与えることに習熟している。細部のない、手触りのよい受けこたえを生産する。彼女は思う。みんな、誰かの何かを知りたいわけじゃない。その場に異物がないように見え、会話がさらさらと流れればそれでいい。
 親を愛さない者はこの社会の異物だ、と彼女は思う。彼女は親を憎み、彼らを忘れることを願い、年をとった今ではほんとうにだいぶ忘れている。許したのではない。関わりあいになりたくない、ならないためなら死にものぐるいで努力する。そのことはよく覚えていて、あとの記憶は他人事のようなのだった。
 一切の連絡を絶って十五年になる。苦労をしなかったわけでも、不便がないわけでもないけれど、まずは愉快に暮らしている。すると主に年上の他人たちが言う。いい学校出してもらって、ご両親に感謝しなくちゃいけませんよ。きれいに産んでもらってお母さんに感謝だねえ、それともお父さん似?彼女はもちろん感じのいい返答をする。世界には無給の仕事が数多くある、と思う。「標準」でないものはそのふりをしなければ不利になる。つまり選択の余地のない無給の仕事が多い。そう思う。起きてシャワーを浴びて通勤してにっこり笑ってあいさつして給料の出る仕事をして胃に何か入れて通勤して掃除して洗濯して税金を払う。生きていて石を投げられないために、それだけではいけないのかと思う。それだけでいいならどんなにかすてきだろうと思う。
 にこにこ笑って感じのいい受け答えをして帰宅してちょっと吐いて吐くのに使った洗面所を掃除する。年末になるとゆるむなあと彼女は思う。胃袋の上のについている蓋がゆるみ、振るとなにかがこぼれる。そういう感じがする。年末年始は苦手だと思う。目を上げて鏡を見る。でも、とつぶやく。今の「仕事」なんか子どものころに比べたらほんとうに楽だし世界は美しく輝いている。声に出してそう言う。年齢が二桁に上がる手前からお手伝いというレベルを超えた家事の担い手であって、家長が帰宅すれば玄関でお出迎えしてコートを預かり食卓では醤油さしを取ったり熱燗をつけたりし、ブスだバカだおっぱい小せえなあと笑われてにたにた笑い返すのが「仕事」だった。時には夜中まで「勤務」が延長され、よく学校で眠っていた。蕁麻疹が出ると家の「仕事」は免除されるのでずっと出ていればいいのにと思っていた。水玉模様。
 鏡の中の今の顔はもちろん水玉模様ではない。彼女は思う。今は水玉模様でないほうがいい。小じわもないほうがいいけど、そんなのは、たいした問題ではない。年をとるのはいいことだ。とってもすてきなことだ。世界は確実に良くなっている。だって昔は緊急連絡先が親族じゃないとほぼ賃貸契約が成立しなかったのに、最近はよぶんに金を積めば赤の他人が連絡先だってだいじょうぶなのだ。友だちにきょうだいのふりをしてもらわなくていい。嘘をつかなくても屋根のあるところで毎晩眠ることができる。
 調子わるい、と彼女は言う。私は彼女のそのような話を、一連のストーリィとして聞いたのではない。十年くらいのあいだ、冬が来るとそうした断片を受け取り、なんとなし、年末年始に具合が悪くなることを理解した。お正月は日本の「家族」の祝祭だ。お父さんとお母さんがいて子どもがいておじいちゃんがいておばあちゃんがいる「家族」の、聖なる休日だ。祝祭は寿ぐ対象でないものを攻撃するのだろうと私は思う。だから年末が近づくと彼女に会って調子はどうと訊く。調子わるいと彼女はこたえる。それから言う。でもお正月は好きだよ。お正月はいいものだよ。仕事をしなくていいし。具合が悪くなるのは、なんだか困るけれども。