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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

自意識補填ビジネスと私

 延々とブログなんか書いていると、年に一回くらいの頻度で「この媒体に載せてやるから金を出せ」という趣旨のアプローチがある。投稿者の原稿を掲載する雑誌だとか、そういうのだ。そのたびに私はなんだか、うっすらと、しかし特有の、不快感を覚える。私はお金を払って原稿を掲載されたいと思わないから、それは不要な勧誘だ。ただそれだけのものだから、メールにスパムの印をつけてそのまま忘れてしまえばいいのに、都度、少しだけ、そのメールを覚えていて、うっすらと不快な感覚を維持してしまう。
 そういった宣伝のメールの第一声はたいてい、「ブログ読みました!ステキですね」というようなものだ。感想めいたお世辞を連ねるものさえある。もちろん多くはテンプレートだけれども、それにしても、なんだかすごいな、と思う。商売目的で素人の文章を読んでお世辞を書くってどんな気分だろうと思う。その種の宣伝を受け取った経験は一度や二度ではないので、一定の市場があり、そこで労働する人があるのだろう。今回の宣伝に至っては、「原稿が雑誌に掲載されると手書きの感想カードが届きます。あなたにも必ず届きますよ」ということだった。アフターフォローもばっちりなのだ。
 というわけで、そういう宣伝が来ると、なんだか不愉快でねえ。私がそうこぼすと、友だちは笑って、まあ、あからさまではある、と言った。文章を書く人間はそれが何かに掲載されることをとても望んでいるので、そのために金を払う、という予断が、ずいぶんあからさまに出てはいる。でもまあ、そういう商売は世にあふれていて、標的は作文趣味の人間ばかりじゃない。だから安心しなよ。自分のしていることを肯定してくれて、自分をいいもののように思わせてくれるものに、対価として金を払う、というしくみは、けっこうあちこちにある。私だって自分のやり方を肯定してくれて自分に特別な価値があると思わせてくれる内容のビジネス書とか買って読んじゃうもん。みんな心が栄養不足だからさ、自意識補填ビジネスの跳梁跋扈は避けられないし、必要に応じてほどよく利用したらいいんだよ。
 自意識補填ビジネス。私はつぶやく。友だちも繰りかえす。そう、自意識補填ビジネス。わかってて使うぶんにはOKだと私は思うよ。それこそ、昔から自分をえらいと思いたいおじいさんが自費出版で自伝を出したりとかするじゃない、あれってけっこう、わかっててやってると思う、まさか全員が本気で「俺の偉大な生涯を愚民どもに伝えてやらなければ」と思って出版費用を負担しているとは思われない。立派になったような気がして、気分がよくなるから出そう、そう思って自費出版するんじゃないかな。そういうのって健全のうちに入ると私は思う。マキノはたまたま、そういうのに興味がないだけで、興味がある人もあるんだろうから、宣伝をそんなにいやがらなくてもいいんじゃないの。
 そうかいと私はつぶやく。そこいらを通りかかった人に読んでもらえたら私はうれしいけど、それは書くことそのものとは関係のない問題だ。私は、二十一までチラシの裏(比喩でなく)に、三十までスタンドアロンMacにこりこり書いていた暗い人間で、だから自意識補填業者の宣伝は無駄だ。無効だから無視していればいいのに、なんだか不快なのだ、薄く、けれども確実に。どうしてだろう。
 そのように尋ねると、あんたが孤独な人間だからじゃないの、と友だちは言った。人から見られたり褒められたりするとうれしいという素直な気持ちがなくって、いや、あるんだろうけど、書くということについては、人生の早いうちからそれがねじまがって内側に入っちゃってるから、そういうのを率直に出せる人間が妬ましいんじゃないの。
 そうかもしれないと思う。私は、一人さみしく猫背になってしょぼしょぼ書くのが好きだから、「執筆仲間をご紹介します(ついては会員登録を)」みたいな宣伝も即ゴミ箱行きにする。「私たちのコミュニティで、あなたの読者を増やしましょう(ついては会員登録を)」みたいなのもだ。自意識補填ビジネスメールほど不快ではないけれど、好きではない。でも、一人でさみしいのが好きだなんていうのは、友だちの言うとおり、なんらかの屈折であると見るのが妥当だ。書くことを離れて、私生活のすべてで孤独であったら、そんなのはすごくいやだ。褒められるのも大好きだ。足りないと自分で褒めるほどだ。なんならお金を払って褒めてもらっても良い。
 そう嫌いなさんな、と友だちは言う。お金を払って自意識を補填するくらいのほうが大人だと、そう思っていたら、いいじゃないの。