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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

私たちのまぼろしの正しさ

 私は目の前の友だちを見る。彼女が疲れていることを私は知っている。無料で文字や音声のやりとりができる世界にあって相変わらず対面で人と会うのは、その身体の状態をわかちあうことができるからだ。目で見えるものにかぎっても大量のチャンネルがある。表情、肌や髪の質感、姿勢、しぐさ、身なり、それらのふだんとの差分、などが、他者に関するいろいろのことを、私に伝える。なにより、ただ物理的にそばに存在すること。隣の椅子に座ってコーヒーをのむこと。それは言語に載らない情報を通す回路であるかのように感じられる。
 彼女は言う。あのねえ引っ越したの。子どもが大きくなって手狭になって、でも私もうあんまり家で仕事しないから、どうにかなるといえばなる状態だったんだけど、なんだか、閉塞した感じがして、子どもはまだそういうのよくわかんないと思うけど、夫も私も、何があったのではないのに、行き詰まったように感じて、私が、時間をやりくりできる自営をやめて、呼ばれた会社に戻ったから、彼も負担、増えてるし、うん、そういうこと話したんじゃないのよ、私が勝手にそう思ったの、それで引っ越そうかって言ったら、夫も乗り気で、やっぱり気分かえたかったのね、それでね子どもの通学に支障のない範囲で探してね。
 いいねえと私は言う。私も引っ越しだいすき。彼女はほほえむ。でもねえ、あの人、新居に入ってからぽつんと言ったんだ、買っちゃってもよかったかな、って。私も彼も賃貸派で、いつ何があってもどこへでも行ける、別々に住んでもだいじょぶ、そういう夫婦のつもりでいた。でもあの人はいつのまにか、そうじゃなくなってた。そんなの私、知らなかった。私はあの人を安心させてあげるべきだったのかもしれない。ローンを組んで郊外のおうちを買ってふたりでせっせと借金を返す生活を送るべきだったのかもしれない。自営のままでいて、しかも商売に色気を出さないで、できるだけ家のことをやるべきだったのかもしれない。あるいは二人目の子を持てばよかったのかもしれない。
 私は彼女を見る。彼女は疲れている。住居を買うか借りるかの問題ではないのだと思う。彼女はこの十数年で結婚して離婚して再婚して子を産み、就職して独立して作った小さい会社を人に売り別の会社に就職した。私は彼女ほど大量の決断をしたのではないけれど、過去の選択が疲労となって積み重なることは知っている。私たちは根拠のない状態で何かを捨てて何かを選ばなければならない。私たちはその責を、誰にも負わせることができない。そして自分の選択は正しかったのかと、いつも疑っている。何かというと「あなたは間違っている」という意味のことを言われる。転職する、しない、商売を始める、始めない、結婚する、しない、離婚する、しない、子を持つ、持たない。どこへ行っても嘲笑と罵声から逃れることはできないけれど、とくに一度はじめたことをやめるときには、たくさんの悪い声が投げつけられる。他人の職や家庭の維持を、人々はやけに望んでいるようなのだ。私たちは毎日毎日老いて死に向かっているから、維持なんてほんとうは、どこにも存在しないのに。
 引っ越してよかったんだよ。私はゆっくりと言う。引っ越して、気分が変わったんだから、よかったんだよ。新しい会社に入ったのも、よかった。腕を見込んで呼んでもらえるなんてすてきなことじゃないか。息子さんもだいぶ手がかからなくなったんだから、多少家をあけたっていいでしょう。誰の反対を押し切ったわけでもなくって、希望を話して賛成だって言われてしたことなんだから、いいんだ。ほんとうはそうしてほしくなかったのに察してあげられなかったんじゃないか、とか、引っ越しなんて無駄なことをしてしまったんじゃないか、とか、そういう心配は要らない。
 そうかなと彼女はつぶやく。どうしてサヤカはそんなふうに言うの。あなたは正しいと思うからだよと私はこたえる。そうして思う。あなたは正しいと私が言いたいからだよ。あなたは正しかったと、何度でも私は言う。これから先、同じ質問が十回来ようと百回来ようと、そのたびに言う。この世に、確実な正しさはない。私たちには確固とした信念も、それに基づいた行動だけをとる一貫性もない。私たちは私たちの正しさをついに見つけることができない。私たちはいつも迷う。世界には私たちの選択に対する非難があふれている。だから、私は言う。あなたは正しかった。私のせりふなんかまったくなんの役にも立たないけれども、私はほとんど私のために、何度でもそう言いたいのだった。