傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

欲望が見えない

 テラスで待っていると待ち人が目の前を過ぎてどきりとする。斜め前を行く女性の肩に手をかけて歩いていた。軽くてのひらを置いて、ゆっくりと進む。凝視しても気づかない。店の前で彼はその肩からごく慎重に五本の指を離す。彼だけが店に入ってくる。視線がしっかりと合って私はため息をつく。どうしましたと彼は快活に言う。快活で誰にでも好まれた学生時代の後輩の、その幽霊があらわれたと思った。ひとまわり縮んだように見えた。顔色も手の色も不透明に白く不吉に静脈が浮いていた。呼吸の頻度が成人としてはほんの少し高い。目が合う。目が見えていると私は思い、少しほっとする。
 いやあ死にかけまして。ええそう、文字どおり、バキバキに折れちゃってあちこちの骨が。うん歩いてて車にはねられて、それで。なんかね内臓もちょっと潰れたみたいで、いや治りましたよだいたい。おおむね。切ったり縫ったりしてもらってわりと長くかかったから仕事もしてないです。今の人、見たんだ、いい人ですよ、看護師さん、入院してたとこの。親切にしてくれてるんだ。いや別につきあってないです。俺の好みじゃないし、だいいち彼女とかしばらくいないし要らないです、ここ何年か疲れて、すごい疲れてめんどくさくて、いろいろ。
 彼は大きい会社で華やかに仕事をこなしていた。誰もが彼を好きだった。彼は他人に好かれるすべを心得ていたし、上手にそれを遂行することができた。仕事の半分はそれで終わったようなものだった。残り半分はいささか専門的な知識と技能を要し、けれどもそれはいくらでも代替のあるものだった。しばらく経つと自分がその専門領域をそんなに好きじゃないこともわかった。まあいい、と彼は思った。彼はただみんなに好かれてみんなが笑ってくれたらそれでよかった。
 みんな彼を好きだったし、みんな笑ってくれた。年をとって疲れやすくなって仕事のほかの生活がなくなった。月曜日はすぐにやってきた。彼はベッドから自分を引き剥がしオートマティックに身支度をととのえて出社した。ずいぶん前から彼は、出社時の通勤時間の記憶をなくしていた。昔は本を読んでいた、とぼんやり思った。最近は気がつくと駅にいて気がつくと会社が目の前にある。
 年をとって疲れやすくなってからだのあちこちが痛んだ。不自由が過ぎるので不承不承医者に行って痛いんですと言うとあれこれ検査をされて異常ありませんと言われた。精神的なものかもしれませんねと医者は言った。役に立たない、と思った。にこにこ笑っていた。医者は気の毒そうにカルテに向かい、よかったら紹介状を書きますと言った。医者はそのあと一度電話をかけてきた。近ごろはいかがですか、よかったらお勤め先に近い精神科を紹介します。最近の医者はお節介なんだなと彼は思った。
 いろいろの人が彼にお節介を焼いた。少しうれしかった。でもからだが痛いからあんまりよくわからなかった。彼は帰省せず、人に会わず、かろうじてつながっていた恋人と別れた。それほど悲しくなかった。たぶん飽きちゃったんだなと彼は思った。だからこんなにからっぽで、悲しくないんだ。
 出社時にかかわらず、歩いているときのことを覚えていられなくなった。つきあいの飲み会は最初(誰と誰がいたか)と最後(支払い)だけ意識があるようだった。ダイエットと訊かれてダイエットとこたえた。やりすぎと誰かが言った。彼はとても感じ良く笑った。集中すればたいていの相手に好感を持たれる笑いかたを彼はすることができた。でも、と彼は思った。それってこんなにたいへんなことだったかな。そう思って、忘れた。そのあと何日かが過ぎて、空にひとつの雲もない春の朝に、速度を充分に落とさず右折したワゴン車に接触した。
 仕事しないで誰とも話さないでいたら怪我は痛かったけどもともとの痛いのはなくなりましたと彼は言った。自分の感情に鈍いと身体がかわりに話すんだよと私は言った。そうみたいですねと彼はこたえた。なにか学習したと私は尋ねた。もう誰にも好かれなくていいですと彼はこたえた。よかった、と私は思った。ほんとうによかった。誰にでも好かれるなんてよくないことだ。そんなのただの生贄じゃないか。目が見えていてよかったと私は言った。彼は首を傾げた。だってあなたあの女の人の肩に手を置いていたでしょう、あれは目の見えない人が先導してもらうためのしぐさだよ。知らなかったと彼はつぶやいた。ただなんとなく、そのほうが歩きやすくて、そうしていました。見えなかったんだねと私は言った。あなたは自分の欲を見ないで人のために生きていたから、まだよく見えないんだね。まだ見えないのかなと彼はこたえた。でももうなんにもしたくないからしてなくて、だから、そのうち見えるんじゃないかな。