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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

とくに理由もなくふといやになって連絡もなしに消えていく権利をあなたに付与しよう

 彼は言う。彼女はなんとなし天井を見る。古い古い天井扇が回転している。あんなにゆっくりで空気の循環に寄与しているのかしらと見るたびに思う。日本ではあまり見ない。ことにこんなに古くてそのうち落ちてきそうなものは。彼女は彼を見る。彼はコーヒーをのむ。彼女もコーヒーをのむ。彼女は言う。いいね、それ。
 そのようにして彼らは彼らの関係から錘を取りはらった。どんなに気楽に過ごしているつもりだってある程度親しくなれば規定の枠にはめろという他人の声が聞こえるようになる。同年代で独身同士で性別がちがうとなおさら。どうしてかなと彼女は思う。そんなのひとつもおもしろくないのに。私には恋人だったと思う人が何人かいるけれども、その人たちが同じ枠組みの同じ機能を持つ存在だなんて少しも思わない。そもそも名前をつけること自体が不承不承の、しかたのないもので、恋をしているから恋人なのだろうと思っただけで、恋というのはそれだけ重大なもので、だから義務を負ったので、相互に恋をしていない今、どんなに親しくても他人からとやかく言われる筋合いはない。おかしな名前をつけられるいわれはない。
 彼らは暗黙のうちに誰にもたがいを紹介しなかった。ほんとうは共通の知りあいがひとりいるけれども、ほとんど意図的に疎遠になった。かすかな嫌悪感を持ちながら彼らはその知人をきれいに忘れることに成功した。彼らの双方を知る者がいてはならない。彼らに名前をつける者がいてはならない。なに、どうせたいした人物ではなかった。愚鈍だし人を苛つかせるところがあった。彼女はそのように思った。
 彼らはふたりで趣味の旅行を満喫しているので一般的な友だちの枠からははみ出しており、それよりましな名称はおそらくなくて、だから呼ぶ者を排除した。しばらく彼らは平和だった。彼らは月に一度か二度寝起きをともにして、ときどき小さな贈りものをやりとりし、年に何度か旅に出た。外国はいい、と彼は言った。義務もないし、責任もない。小銭があって木賃宿でも満足できる無害な観光客ほど気楽な身分はないね。彼らは錘そのものを軽んじていたのではなかった。他者の錘ある関係、たとえば家族や恋人を、たいへん尊重していた。ただ彼らは自分たちにそれをあてはめられたくなかった。彼らはそれぞれの理由で自分はそうした関係を築くことは向かないと痛感していた。彼らはすでに若くなかった。
 けれども、と彼女は思う。どんなに気楽に過ごしているつもりだって、規定の枠にはめろという他人の声が聞こえてしまう。私たちは他人の声を、どうしても内面化してしまうからだ。だから彼はそう言ったのだろうと彼女は推測した。ありがとうと言った。とてもいいプレゼント。あなたにもあげたい。要らないと彼は言った。いなくなることがあったら僕はきちんと説明する。懇切丁寧に説明する。説明は要らないと言われたらしない。ほかのことをしてほしければする。きみの望むことを。不公平だなあと彼女は言う。彼はげらげら笑ってこたえる。きみはほんとうに可笑しな人だなあ、感情の公平なんて、そんなの、なにひとつおもしろくないし、だいいち不可能そのもので、公平みたいに見えるものは、ただのふりなのに。彼はそれから一年半ののち、仕事の都合で先に帰国する彼女を空港で見送り、それ以来、連絡がつかなくなった。
 探せばいいじゃんと私はこたえた。彼女は軽蔑のまなざしで私を軽く薙ぎ、私はうひゃあと思う。この人って昔から私のこと好きじゃないんだよな、と思う。同窓会で見かけてのこのこ近寄ってそういえば私が紹介したあの人とはどうなったと訊いたら睨まれた。そして不可解な話を彼女はしたのだった。彼女は平坦な声ですらすらと話す。探してどうするのよ。説明するって自分で言っておいて消えたんだから、メッセージ二回送ってそれ以上のことは私は、しない。私は、そういうものでありたいの、彼のそういうものでありたい。そもそもいないものをどうして探すの。生きてるなら私に会いたくないんでしょうし、死んでるならそれきりじゃない。だって死んでたらお線香あげたほうがいいよと私は言った。鼻で笑われた。
 私は思う。とくに理由もなくふといやになって連絡もなしに消えていく権利。たしかにそれは、いいものだ。なんだか蠱惑的なものだ。でももしかするとそれは、とてもいけないものでもあったんじゃないだろうか。そんなものを小箱に入れてリボンをかけて気軽に差し出したから、その人は帰ってこられなくなったんじゃないだろうか。そう思う。でも言わない。きっとまた、鼻で笑われる。