傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ありがとうの魔法

 息を吸う。いつのころからか彼女の肺は適切な呼吸の量がわからない。短く不規則な呼吸をふたつみっつする。顔をあげる。ありがとうと言う。夫はほほえむ。多大な労力をかけてベッドから引きずりだした身体をどうにか椅子の上に据え置く。嵩張るばかりで価値のない荷物のようだと思う。子がおとうさんありがとうと言う。夫は自分の朝食をすでに済ませており、彼女と子とふたりのために作った朝食を置いて出勤していく。子は食事をする。彼女はどうしてもそれを食べることができない。
 午前中ずっと立ち働くことが彼女にはどうしてもできない。横になる。子どもが癇癪を起こす。小さい手を振りまわし泣いて彼女を叩く。痛いよと彼女は言う。やめて、ぶたれるとおかあさん痛いの、悲しいの、やめなさい。子どもが疲れるまでそれは継続される。子どもは叫ぶ。おかあさんなんかきらい、おかあさんなんか死んじゃえ。
 彼女は医師から処方されている薬をのむ。ほどなく嵩張る荷物のようなからだが少し遠くに行く。楽になったなあと彼女は思う。掃除をする。洗濯物を干す。掃除したところを見直す。拭き掃除を追加する。掃除したところを見直す。少し安心する。着替える。子どもを散歩に連れて行く。子どもは彼女の手を決して離さず子どもなりの語彙でひっきりなしに話しつづける。彼女はうなずく。子どもの話していることはよくわからない。ただやさしい声を出す。相槌を打つ。彼女はそれを、とても上手にすることができる。
 帰宅する。夕飯をつくる。夫は遅くなるのでそのぶんは仕上げ前の状態にしておく。米も炊かずにおく。冷凍しておいた余りごはんをレンジで解凍し子に食べさせる。子を寝かしつける。突然に空腹を感じ台所で立ったまま冷たくなったごはんをかきこむ。咳きこんで水を飲む。胸のなかの拳が彼女を打ちつける。シンクの前で咳をしたので自動的にシンクを磨く。腕が痛かった。痛みはすみやかに遠ざかった。
 夫が帰宅する。目の前のものが突然に立体感をうしなう。おかえりなさいと彼女は言う。いつもお仕事お疲れさま、ありがとう。彼はほほえむ。彼女は彼の上着をかける。彼の食事の世話をする。彼女の携帯電話が鳴る。彼女はびくりとする。それを無視する。呼び出し音は止まらない。慌てて電源を切る。背後で夫が立ち上がった気配がする。彼女は咄嗟に背を丸め頭をかかえる。夫が笑う。何をしているんだい、まるで何かされると思っている人みたいじゃないか。僕がきみになにかするとでも?まさかねえ。子どもに朝飯もろくに作ってやらない病人の嫁さんの尻拭いのために早起きしているような僕が。
 彼女は立ち上がる。まさか、と震える声でつぶやく。笑う。彼が軽く手を動かす。彼女はびくりと痙攣し、それから元の姿勢に戻る。にこにこ笑う。携帯電話を解約しようと思うのと彼女は言う。そう、と彼はこたえる。食事を再開する。彼女は空いた食器を下げお茶を淹れる。彼は言う。きみの電話だからきみの好きにするといい。正解の回答を彼女は知っている。それを口にしなければならないことを知っている。ありがとう。からだが荷物であることさえやめて、回収を待つ粗大ごみであるかのように感じられる。
 よく訓練されるとそういうふうになるのよと彼女は語りを終える。夫のしてくださることをありがたく受け取るマシンになる。ありがとうと言うたびに自我が消えていく。夫のためのものになる。夫はよく私に夜通し話しあいという名の説教をして眠らせなくって、それでも本人は平気で翌朝起きて会社に行くの。丈夫な人なの。そして私は昼間いくらでも眠れるんだから平気なはずなの。でも平気じゃない、次はそうされないために死に物狂いになる、注意されたことを改善しなければならない。それについてありがとうと言うたびに私は消えていった。私がなくなって私の中が夫でいっぱいになった。私は、夫になった。夫のために機能するだけの何かになった。
 夫は私に対する思いやりにしか見えないことだってしていた、たとえば朝食をつくってくれるとか。でも私はそれを食べたくない。ありがとうと言って食べたら彼のすべてを受け入れることになってしまうって思う。地獄に降りて食事を勧められた昔話の人のような気持ちになる。でもありがとうと言った、だから私は、消えてしまった。あなたや他の古い友だちのことも、もうほとんど覚えていない、記憶がない、私は消えたの、もうどこにもいないの。
 彼女のせりふを聞いて泣き崩れて病室を出た。私はあの人の友だちなんかじゃなかった。だってなにもできなかった。ただ年に一度ばかり会って、幸せなんだと思ってた。私は愚かだった。