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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたに合わせた壊れかた

 友人とその夫が改札前に立つ私を見つける。私は友人を見る。息をのむ。もともと小さく華奢で、けれどもこんな、頬骨が透けてみえる人ではなかった。ぼんやりしてほほえんで青白くって幽霊みたいだった。私は少しかがんで彼女と目をあわせ、久しぶり、と言った。そうねと彼女はこたえた。彼女の夫が目配せをして私たちに背を向け、ふたたびホームに降りていく。歩けると訊くと電車に乗ってきたのにとこたえて可笑しそうに笑った。そんなはずはないのに、笑うと罅が入るような、目の前でぱりんと割れそうな気がした。彼女の大きいかばんに手を遣り、持つよ、と言う。彼女は逆らわない。触れた指の冷たさに驚き、反対の手に荷物のすべてをうつして手を取った。彼女のためというより、自分の不安のためだった。
 彼女はこれから関西の実家に戻る。少し休むという。さまざまな心身症が出て会社を辞めたばかりで、辞めること自体にも巨大なエネルギーを要し、極度に疲弊していた。出戻ろうと思ってたんだけどねと彼女は言う。彼女は新卒で勤めた小さい会社から大きい会社に移った。最初の会社は彼女をもう一度雇うつもりでいて、彼女もその気でいて、けれども夫と両親はとにかく少し休むようにと、揃って説得した。
 そこまで聞いたところで私の部屋に着く。彼女を泊め、朝になったら新幹線に乗せ、彼女が降りる駅で待ち構えるご両親にメールを打つてはずだった。今の彼女は常に誰かに見守られているべきだと彼女の夫は考え、そのような体勢をつくった。私が駆り出されたのは彼に避けられない出張があったためだ。彼はあきらかに罪悪感を持っていた。痩せてしまったことを心配はしても、彼女の新しい職場の問題をどうにか聞きだそうとはしなかったからだという。
 彼女は最初、大歓迎された。うちのやりかたはおいおい覚えていただければいいですから、と新しい職場の上司や先輩は言った。彼らは彼女の勤めていた会社の名をあげた。ああいう特殊なところに新卒からいらしたら世間のことがいろいろわからなくてもしかたないですからね。彼女はほほえみ、ご指導よろしくお願いいたしますと頭を下げた。先輩がひとりついて何くれとなく教えてくれたが、ほとんど必要なかった。前職と同じ種類の業務で、彼女はよく勉強してもいたからだ。
 ようすが変わったのは三ヶ月後あたりからだった。上司と先輩が「中途採用なのだし、そろそろ新人気分でもないでしょう」と言いだした。仕事そのものに問題はなかった。文書の細部やメールの言い回しにちょくちょく注意が入るようになった。仕事の量が増えたが、これが標準で以前が新人向けの量だったのだろうと彼女は思った。かなりの効率化を実現してその量に適応した。やがて、「有給休暇をとったあと、朝いちばんで上司と同僚に休暇取得の礼を言いにこない」として一時間の面談が組まれ、叱責を受けた。「指導に対する感謝が足りない」という理由で再度の面談が組まれた。「世間を知らない、社会人としての基本がなっていない」として、彼女より先に入社した人々(つまり全員)より先に退社することをとがめられた。彼女は一見、なんでもないようにふるまっていた。そして偶然に聞いた。「まだつぶれない、かわいげがない」というせりふを。
 彼らは「かわいげ」ある社員を育成するため、通過儀礼として挫折を味わわせることを、意図しておこなっていたのだった。彼女はそのことを理解し、翌日から頭痛とめまいが止まらなくなり、入院し、辞表を書いた。彼らは非常に慌て、猫なで声で彼女に電話をかけてきた。辞めますと繰りかえすと彼らは荒れた。それは彼女の甘えだと言いつのった。彼らに悪意はないのだろうと彼女は思った。一度だめにしてそこから救ってやることを相手のためだと思っているのだろうし、自分たちに買われて教育されることは相手にとって幸運だと思っているのだろう。
 そんな都合のいい壊れかたを、誰もがするわけではないのにね。私のつくった食事を半人前ばかり、おそらく努力して食べたあと、彼女は言った。一度つぶして従順な人間をつくるっていう考えかた、邪悪なだけでなく、働ける程度にしかつぶれないと信じているのが愚かよねえ。そんな相手だったのに、認められたくて一生懸命彼らの話を聞いて無理を重ねていたんだ、そう思ったら、なんだかもう、気持ち悪くて、毎日気持ち悪くて、ごめんね、でももうだいじょうぶだからね。だいじょうぶじゃなくていいと私はこたえた。私は、だいじょうぶであってほしいと要望しているんじゃないよ、ゆっくり休んでもらいたいと思っているんだよ。