傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

友だちにならずに

 誰かが怒鳴る。誰かが罵る。テンプレートがあってみんながそれにしたがっているみたいな、画一的な言葉遣いだった。シネ。カエレ。シネ。カエレ。シネ。シネ。シネ。シネ。私は罵倒の対象になっている友だちを見る。友人は眉を上げ、おそらく私のためにきびすを返し、通る道を変更する。私たちは遠回りして駅前をめざす。知らない他人に死ねと罵られること。それは起こりうる。日曜の昼下がりの買いもの帰りの道端で突然に起こりうる。それは違法ではない。徒党を組んで路上で誰かに死ねと言って、デモを見守る警官に捕まることはない。今のところこの世はそんなふうにできている。
 ごめんねと私は言う。サヤカが言ったんじゃないし言わせたんじゃないでしょうと友だちはこたえる。私は自分の責任感について少し考え、それから説明する。最近さあ、私って世界をつくってるなーって思うのね、ごくごく一部、あるいは膨大な数の要因のひとつとして。私はもう大人だし、完全に無力な存在というわけじゃないし、だから、私は、世界の一部を担っているんだなーって思うの。そして世界はときに醜いよね、あのように。だから私は謝ったの。
 友だちは笑う。中年の自覚、と言う。私はそれを少し訂正する。健全な中年の自覚。友だちは頷く。生まれてから成人するまでのほとんどの時間を日本で過ごし、私と同じ高校で同じ授業を受けて一緒にお弁当を食べ、籍と故郷の意識は北京にあり、今はアメリカで働いていてときどき日本に戻ってくる。彼女は話す。
 ああいう連中と関わりあいになることが少ない環境を選んで手に入れて、ときどき行きあったって軽蔑して遠ざけることはできる。けれどもそれは、なくなりはしない。彼らはもちろんその意識を変えない、彼らは死ねと言いたい、それが許される劣悪な存在があるんだと思っている。彼らは誰かが自分の下にいなければならないと信じていて、でも見つからないから、日本人というカテゴリまで自分を拡大して、その下にたとえば中国人を持ってきて、ようやく気持ちよくなれる。サヤカだってそういう人間に罵られたことあるでしょう。インターネットとかで。
 もちろん、と私はこたえる。インターネットだとより安直になるね。死ねと彼らは言うよ。死ねババアって言う。彼らのうち何人かから長いメールを受け取ったことがあるんだけど、それによると私は羊水が腐っているのでずうずうしくブログとか書くなんて言語道断なんだってさ。一から十まで理屈がぜんぜん通ってない主張だから、たぶん信仰なんだよ。自動的に自分の下に来るカテゴリがないと死んじゃう病気かなんかで、だから「それはありますとも」と約束してくれるカルトに入信したんだよ。何もかも事実じゃないからダメージは受けないけど、そのような病とカルトの存在を知らされるのは不愉快なことだよ。
 彼女は口をひらく。自動的に誰かが自分の下に来るカテゴリはない。誰にとってもない。そんなことはわかりきっているけれど、ああやって集まってるのを見ると危機感を持つなあ。あのデモの連中とサヤカのちがいはどこにあるんだろう。彼女はちらりと私を見る。私はかんたんに答える。そこいらに中国人がいて友だちになったかどうかのちがいじゃないの。知らない相手を自分とおんなじ人間だってちゃんと認識できないことは私にもあると思う、誰かを見下したい欲求だって探せばきっと出てくる、でも外国人の友だちがいたら、相手がおんなじ人間だってよくわかるから、彼らみたいにインスタントに「自分より下」の集団を措定することがない。
 友だちがいないのか、と彼女はつぶやく。それはいけないねえ。友だちがいないと、自分しか見えないものねえ。自分と、自分っぽい人しか見えない。自分しかいない世界で自分を王さまにするには、景色のなかから邪悪な動物を探して血祭りに上げなくてはいけない。中国人とか女とか、そういうのを。中国人や女の友だちがいたら彼らもちがっていたのかな。ねえサヤカ、でも私は彼らと友だちになんかなりたくない、サヤカもそうでしょう。それならどうやって私たちはこのような世界を変えることができるんだろう。
 私は大きく首を振る。私は彼らを憎んでいる、憎しみの応酬が事態を悪くするとしても応報感情を捨てる気なんかない、ああいう連中はまとめて燃やせばいいんだって思ってる、あなたみたいに寛大じゃないんだ、だから私は暴言を野放図に言えない環境をつくるとか、そういうことしか考えない、彼らの感情やたましいについてなんか考えてやらない。友だちは苦笑して私の頭に手を遣り、子どもだなあ、と言った。