傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

オツベルを捨てる

 私はみんなを見渡す。みんなこぎれいな格好をして適度に酔ってほぐれ適切な範囲で高揚した声をあげている。適応、と私は思う。私たちはバランスのとれた大人でどこも破綻していない。同じように集まって楽しんでいても学生時代ならそれぞれのほころびがちらりちらりと見えていた。いちばん安定している人を選んだとしても両手をまっすぐ伸ばして丸太の橋を渡っているような危うさがあった。若いというのはそういうことで、だからあのころ仲間のように思っていた人のいくらかとはおそらく死ぬまで会うことがない。
 私の斜め前の席で話している彼女の顔にもほころびはなかった。彼女はかつて彼女の母に肯定を供給する機械のように暮らし、その一環として稼ぎの半分を家に入れ家事労働を負担していた。私たちがどんなに言っても聞かなかったのにある日突然母と母の溺愛する兄を置いて彼女は家を出て、それから一度も戻っていない。そのことを私は確認する。彼女はやけに美しく見える斜めの角度のまま視線だけを私によこして、そうよう、とこたえる。きれいさっぱり、なーんにもしてあげてない、会ってない、説明だってめんどくさいから一回しかしてない、反論を聞いてあげてもいない、そろそろあきらめたんじゃないかしらねえ。
 よかった、と私は思う。誰かに延々と搾取されてその相手を憎まず大切にするなんてまちがったことだ。家族というのはどうやら日本の聖なる物語で、たいていの場合、なにかひどいことをされても許容することになっているみたいで、私はそれが嫌いだった。家族の犠牲になることは時に美しい物語とされていて、そんなのってほんとうにやりきれないと私は思う。そんなの誰かの都合で拵えられた、まちがった信仰だと思う。私は犠牲者なんか美しいと思わない。家族の愛だか情だかという名前をつけてろくでもない人間たちにかかわりつづけてぎゅうぎゅう搾り取られてにこにこ笑って死ぬ人なんて嫌いだ。私はオツベルと象という童話が嫌いだ。親しい者、愛する者に雑巾みたいに扱われて死ぬ直前に仲間が助けに来るという話だ。現実では仲間なんか来ないし、仲間だと思っている人を私たちはちゃんと助けてあげられないし、ばかな象は死ぬだけだ。だから嫌いだった。私は友だちにばかな象みたいになってほしくなかった。たとえそれが美しく高潔であるとされていても。
 彼女はつるつると話す。あの人たちがどうなったって知らない、ざまあ見ろ、だよ。私は、逃げるだけ逃げるって決めてる、とにかくかかわりあいにならない、将来は介護だとか扶養義務だとかが法律で決まっていてどうこう言われるだろうから、たたきつける用の貯金、してるの、すぐおろせるように普通預金で。そのせりふを聞いて私と別の友人が顔を見合わせる。私は小さい声でゆっくりと言う。そんな貯金は要らない。好きなものを買うといい。そうじゃなかったら定期に入れるか運用でもしなさい。彼らには一円だってやる必要はない。それにあなたは逃げてるんじゃない。かかわりあいになりたくないものにかかわっていないだけだ。ただの自由意志の遂行だ。あなたは逃げてなんかいない。
 彼女は少し目を大きくする。目の前のグラスをあける。私たちは大人だから表情は歪まない。彼女は言う。そうねえ、私、まちがっていたね。ざまあみろと言いたいんだねと私はこたえる。相手を見下しながら施したいと思うのは、認めてもらいたいから、認めてもらいたかったから、認めてもらいたかった感情がさんざっぱらひどい目に遭って黒焦げになったから。あなたが、立派になって、ちゃんとしていて、彼らよりよいものになったと示したくなるのは、まだ彼らの悪い魔法が完全にはとけていないせいだって私は思うよ。ほんとうのざまあみろは、彼らと関係ないところであなたがとっても幸せに暮らすことだよ。それが正しいざまあみろのやりかただよ。
 彼女はほほえむ。私もほほえむ。私の脳裏で童話の象が目を覚まし、オツベルを憎む。象はオツベルを踏みつぶすことができる。象はもともとオツベルなんかよりよほど強いのだ。けれども象はそれをしない。象はただ鎖を引きちぎり、ゆっくりと歩き去る。そして住みやすいところを探し、友だちと再会し、新しい友だちをつくり、草を食んだり水を浴びたりする。オツベルのことは覚えいるけれど、ふだんは忘れている。何とも思っていない。それが正しいんだと私は思う。それがこの世でいちばん正しい「ざまあみろのやりかた」なのだと。

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