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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

デイジー、デイジー

 目をあけてああ来たなと彼女は思う。そろそろ来そうな気配はあった。ベッドに投げだした手足が遠くにあるような気がする。そこにあるべき筋繊維は半分くらいどこかにいってしまったみたいに感じられる。若かったころ、それはもっと頻繁に来ていた。そうでないときより、それがあるときのほうが長かった。それは今よりもずっと重たく強大で、よく動いた。彼女はほとんどそれに飲みこまれていたけれど、それが自分の人格の基本ではないことをなんとなく知っていた。それはいつかどこかで彼女に押しつけられた苦痛の結果として彼女に生じているもので、つきあいも長いしよく知っているけれど、彼女自身ではない。少なくとも彼女のすべてではない。
 起き上がるのはけっこうたいへんだ。だってどうして起きなくちゃいけないかよくわからないからだ。放っておけば液状になってベッドにしみこんでそれから床にしみこんでいくのに、と彼女は思う。そのようになるべきだと思う。けれどももちろん彼女は起き上がる。カーテンをあける。空が青い。空が美しく見えないことを彼女は確認する。それが訪れると空は紙を貼ったようなものであり、人の顔はなんだかみんなおんなじに見える。そして時折ものすごく恐ろしいもののように見える。彼女は命令する。シャワーを浴びるよ、デイジー。デイジーというのは彼女がそれにつけた名前だ。自分のなかの化け物みたいなものを少しでも手なづけたくってつけた。自分の一部を憎むのがいやで、可愛いものにした。日本にあってはおもちゃめいた、犬みたいな名がいいと思って、片仮名にした。
 もちろんそれは犬みたいなものじゃなかった。犬だって野生なら彼女を食い殺しかねないけれど、彼女のそれはもっと狡猾で、彼女の中に居座り、彼女の気力や体力をちゅうちゅう吸い取っているみたいに思われた。デイジーのせいですぐに疲れる、と彼女は思った。デイジーを養っているせいでいろんなことが人の半分もできない。休みの日なんかただ横になっているだけで終わりだ。デイジーのいる世界で、高いところは危険だった。そこから地面に向かうイメージが消えなくなるからだ。人によっては電車のホームやロープなどから強烈なイメージを喚起されると聞くけれども、デイジーの好みは高所で、だから彼女は注意深くそれを避けた。避けてなお高所はひどく魅力的な、なつかしいもののように思われた。
 彼女は定期的に医者に掛かり、薬を飲み、それはそれとして、少し気力があるときに、デイジーのようすをよく観察した。デイジーはもちろんのこと邪悪で、彼女を苛み、彼女を搾取するものだった。でもデイジーはもはや彼女の一部でもあるのだ。彼女は少しずつ、ほんとうに少しずつ、その取り扱いを覚えていった。その過程で彼女は自分がいかに怒っていたかを理解した。自分にダメージを与えたものごとに対して激しい怒りと憎しみを持っており、けれどもそれをうまく感じて処理してやることができなかったので、デイジーみたいなものを養うはめになった、というのが彼女の解釈だった。彼女はデイジーとの距離感をある種の指標として用い、怒りや憎しみの取り扱いを少しずつ訓練した。五年もすると訓練が日常になり、十年が過ぎるとからだが軽くなっていた。そのようにして彼女は落ち着いた大人になった。デイジーはもう彼女の生活を破壊しない。彼女はうっそりと落ちこんで、重いからだを引きずりながら生活する。それだけのことだ。油断しないよう気をつけていれば、高所はもはや現実的な危険を持たない。仕事だってできるし、子どもも育てられる。
 彼女の夫は彼女とデイジーが長い長い時間をかけてある種の和解に達したあとでつきあって結婚したので、彼女が時おり味わう世界がそれほど陰惨であることを知らない。ただ何やらおとなしくなり、上の空になる時期があるのだと、そう思っている。彼女の幼い子は彼女がそうなると一緒になってぼんやりして、よくぐずり、抱いてやるとまたぼんやりする。
 そのような報告を受けてよかったねえと私は言った。彼女は学生時代、あきらかに抑うつ状態にあって、私はもちろん、彼女に元気になってほしかった。けれども同時に、彼女の気力を吸い取っている何かがただ憎まれ、切り取られて廃棄されるのはいやだと思っていた。だまし討ちして遠くに捨てたらもっと手に負えなくなって帰ってくるものであるような気がしたし、それに、ただ悪いものだとはどうしても思われなかったのだ。だから彼女が十年かけてそれを飼い慣らした話を聞いてとてもうれしかった。なぜなら私もまた、デイジーのようなものとどうにか一緒に生きている人間であって、自分の中のお化けは切り離すより飼い慣らすほうが正しいのだと、なぜだか信じているからだ。