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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

優秀と有能と勤勉のための税金

 連休はどうだったと尋ねると泣かしたと彼女はこたえた。祝日の午さがりのレストランのテラスで母親と妹を泣かした。それはまた。私は意味のないせりふで時間を稼いで考える。なんでまたそんな派手なことに。彼女は眉を上げる。べつに泣かそうと思ったんじゃない。ひどいことは言ってない。当たり前のことだけ。
 派手なことだなあと私は思う。南方ふうにくっきり整った顔だちの姉妹とその母の優雅な昼食および修羅場。目の前の彼女はまぶたを伏せ、そうすると目の下に濃い影が生じる。私のとおんなじ睫とはちょっと思われない。きれいで賢くてたいていのことは黙って済ませてあとから簡潔に報告する女のひと。今日みたいに不穏な話をはじめるのは珍しかった。
 彼女の妹が上京し彼女と一緒に住みはじめて一年になる。彼女は大学からずっと東京にいる。姉妹は離島の生まれで、妹はいくつかの職業を目指して都市をわたりあるき、去年から東京に来た。妹はこの十年、いろいろの夢のために父親から援助を受けてきたけれども、それがもう続かないことがあきらかにされたためだ。だから彼女は引っ越して小さいながら妹の部屋をつくり、妹はそこに入って、小さいおうち、と言った。妹はアルバイトをし、辞め、別のアルバイトをし、辞めて、専門学校に行くためのお金を貯めているらしかった。
 連休に母親がやってきて、母と妹を彼女がもてなした。なぜだかいつも彼女がもてなす側で、母も妹もおねえちゃんはいいところ知ってるねえ、なんでも知ってるねえと無邪気に喜ぶ。彼女はあまりにそれに慣れているので、それ以外の行動をとろうとしたことがなかった。母は愛らしくて、いつも彼女を褒めてくれた。おねえちゃんはすごいのね。おねえちゃんはえらいのねえ。
 おねえちゃんありがとうねと母は言った。カナちゃん、東京でやっていけるか心配だったんだけど、おかげで安心だわ。いつまでもじゃあないよと彼女はこたえた。母と妹は空気を少し堅くして視線を交わし、もちろん、とこたえた。カナちゃんもね、いろいろ考えてるし、それに、いつかはお嫁に行くのだし、ね。いつかじゃ困ると彼女は言った。いま彼氏いなくて、定職に就く気配もないんだから、あと一年で準備して動いて。更新前にマンションを変えたいから。
 母と妹の顔が白くなり、それから赤くなり、更新って、と母がつぶやいた。そんなことのために。そんなことじゃない、何十万か必要な話だ、と彼女は思う。経済力のない母、経済力のない妹、働いてお金のことを考える彼女を、ふたりは冷たい人のようにあつかう。お金がそんなに大事なのと言う。結論を出すべきことに期限を設けるだけだよと彼女は言い聞かせる。妹の目にみるみる涙がたまり、こぼれて落ちる。かわいいなあと彼女は、うんざりして思う。かわいいなあ、この子は、お世話してあげたくなっちゃうなあ、嫌だなあ、嫌いだなあ。
 そんなになんでもかんでも正論言われても。妹の語尾は嗚咽の中に消える。おねえちゃんにはできない人の気持ちなんかわかんない。おかあさんと彼女は思う。自立しなさい、もうあなたの生活費の負担はできませんって、それは親が伝えることじゃないんですか。私が伝えたあげくに、私がいじめっ子みたいになって、おかあさん、何かおかしいと思わないんですか。そのことばを、彼女は口に出さない。目の前で愛らしい母娘が泣いている。皿の中の肉の温度とグラスの中の炭酸が抜けていく。
 やさしくないと二人は泣く。やさしくないことがどうして罪なのかと彼女は思う。人が自分にやさしくしてくれて当然だとどうして思えるのか。できるから、できるから、あなたはできるから。そんなふうに言うけれど、それじゃあ、できることが借金かなにかで、返さなくっちゃいけないみたいじゃないか。私のした努力、私の使った時間、私のささやかな誇りは、この愛らしい人たちに取り立てられて当たり前のものなのか。
 やっぱりこの子、と母がつぶやく。それは母の、この数年の得意の台詞だ。彼女が「結婚できない」こと、すなわち(母にとっては)愛しあうというこの世でもっともすばらしいことを知らない人間だというのが、母のなによりの悔恨で、だから長女がかわいそうでならないのだった。そのような母を見て、彼女はぼんやりと思う。やさしくない私が愛を知らないのはともかく、妹もどうやら「結婚できない」まま三十歳を迎えるみたいだよ、おかあさん。そうしたらどうするの、妹が私の年になったらどうするの、やっぱりそうやって泣いて、愛を知らないかわいそうな子だと言うの。言わないだろうね、そんなの、今からわかってる。