読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

王子さまとお姫さまの犯行

 死体みたいだ。寝ぼけた頭でそう思ってそれから、めがねのせいだ、と気づく。めがねをかけてまっすぐ上を向いて目を閉じているから死体。男の死体。カーテンの隙間から光は漏れていない。まだまだ夜だ。そう思ってまた眠る。隣の死体はもちろんほんとうには死体でなくって、次に目覚めたときにはもういない。今日は彼女だけが休みで彼は仕事だから、そっと出たのだろう。そう思って彼女は、また眠りに落ちる。彼女の眠りはとても深く、長い。人生の半分くらい、ほんとうは眠っていたかった。
 おかしいと気づいたのはだから夕方だった。iPhoneからアプリがふたつ消えていた。LINEとskype。緑と空色。Macを立ち上げていろいろのことをして結論を出す。iPhone上のアプリだけが消えている。アプリをもう一度入れてもLINEのテキストのトークと通話履歴は戻すことができない。LINEのパスワードを変更する。三秒思考してiPhone本体その他のパスワードも変更する。LINEのタイムラインに投稿する。知らないあいだにアプリが消えていました、昨日から今日にかけて連絡をくれた人はごめんなさい。それから幾人かに質問のトークを送る。三名が彼女のアカウントから彼女の送った覚えのないメッセージを受けとっていた。そんなに害のあるものではない。簡潔な食事の打診だ。いずれも男性名のアカウントで彼女がやりとりを消去しており、連絡先一覧の上部にあるものだった。
 それで、結論としては。私が尋ねると家に泊めた男に決まってるでしょうと彼女は言う。私に送ってきたトークでは「インターネットこわい」なんて書いていたくせに。その彼氏はどうなんだろうと訊くと彼氏ではないと平然とこたえる。相互に使い捨てという暗黙の了解のもと半年ばかり行き来があっただけ。向こうも他の人とのデートの話とかしてたし。私はいささかあきれて感想を述べる。そういう人間を家に泊めるって信じられないな。おうちには手紙とか預金通帳とかあるのにさあ。そこまで私に関心があると思ってなかったと彼女はあっけなくこたえる。だいいちそれらは何の被害も受けてなかったよ、消えたのはアプリふたつと財布の中の一万円札三枚、あとLINEがブロックされてた。
 私はため息をつく。それなら第三者が介在している可能性はほぼないといっていい。データ上の犯行と物理的な署名。署名済みの犯行、と私はつぶやき、それから思いつく。ねえ、その人お金に困ってたの。彼女は私の考えることなんか三十分前から知っていたという風情で口をひらく。いいえ、外でかかるお金はみんな自分が払うっていう、そういうタイプ。女の子はお姫さまだからねって、三十女を相手に臆面もなく口にしてた。なんというか、女の子という概念と交わるタイプだね。王子さまだったのかもしれない、三十男だけど。
 彼の犯行の動機はなんだろうと私はたずねる。ときどき私にイラっとしてはいたねと彼女はこたえる。きみ俺のこと馬鹿にしてるだろって言ってたから。馬鹿にしてたのと確認のようなせりふを使いながらそのことを私はすでに確信している。この人は相手の頭の悪さみたいなものを察すると平気で見下す。表情も態度も丁重なままで確実に相手を軽んじる。この人にはそういう傲岸なところがある。だから私はこのような質問をする。馬鹿にしてるって最初に言ったのは誰、彼より前に。
 彼女はようやく少しおもしろそうな顔をする。べつの男の人ひとりと、あと母親。十代のとき。私も未熟なガールでね、だからわかっちゃったんだろうね。ガールじゃなくなったって、わかるよ、と私は思う。でも言わない。質問を重ねる。LINEのトークを削除するのはなぜ。万一見られたときのために超プライベートなこと書いてあるのを消す、あと最近は、異性とある程度親しいやりとりをしていると消すかな。知ってたんでしょうと、どうしてか私は糾弾の声になる。彼がiPhoneのパスを覗き見たかなにかで破って、中を見てたの知ってたんでしょう。それであなたがばかみたいにぐっすり寝てる間に、会話が消えてる男の連絡先に探りを入れるためにメッセージを投げて、あなたが起きる前に返信が来なくってもどうせ消えるつもりだった、あなたが起きちゃってあわててめがねかけたまま寝たふりをした、そういうことじゃないの。たしかに彼はあなたのことなんか好きじゃなかったんでしょう、彼のほうもあなたを見下して、けれどもあなたはそれをなんとも思わなくって、彼だけが見下されていることに苛ついていたんじゃないの。ものごとを公平にしたかったんじゃないの。彼女は平然と笑う。マキノは相変わらず妄想がすごいね、それがおもしろいから、こうやって話すんだけど。