傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

三角形の地獄

 そういえば最近とてもいい文章を読んだんだ。へえ、なあに、私は文章が好きだよ。知ってる、でもあれは槙野、あんまり好きじゃあないと思うな、達者だとは言うんだろうけど、たぶん読んでる、ほらあの、マンガ家を脅迫した犯人の陳述。あれかあ、読んだよもちろん、全文、たしかに達者だねえ、でも好きではないな、ああいう考えかた。そうだろうね、僕にそっくりだから、槙野が彼と会ったら、戦争が起きる、僕はね、彼があんまり自分と似てるから、ちょっと具合悪くなった、ドッペルゲンガーとか、そういう。
 なに言ってんのお、あの犯人が聞いたらそれこそ、きみ、殴られるよ、あのあたりでいちばんの進学校に行って、日本でいちばんとは言わないけど、その次くらいの大学に行って、有名な会社に入って、華やかなポジションに就いて、羽振りよく暮らしてて、人に嫌われているんじゃなくって、友だちがいて、恋人だってそのときどきでちゃんといて、いや、いないときもあるんだろうけど、でも、あの犯人の語る内容とは、ぜんぜんちがう人生じゃないか、顔だってまあまあきれいだし、いや、最近こうやって声しか聞いてないからもしかするとすごく醜くなってるかもしれないけれども。
 そういう問題じゃないんだ。もしかして、きみ、顔が醜くなったの、あるいは、髪がなくなったとか、私は、髪の毛なんかなくったって格好良い男の人いっぱいいいると思う、プーチン大統領とかさ、やってることめちゃくちゃだけどセクシーかと問われればまちがいなくセクシー、いいかい、髪の毛がなくても心配要らないよ、だめなやつは髪があったってなくたってだめだよ。髪はある、顔もたいして変わってない、そういう問題じゃない。わかった、それで。槙野はさっき言ったじゃないか、いちばんじゃないって。
 なんだ、東大じゃなかったのがいまだにいやなの。そうじゃない、自分の大学の中でもずっとみんなに負けた気がしていた、ご存じかもしれないけどあの大学には、個性的とされる人間がうじゃうじゃいて、俺は、あいつらを見てると、不安になった、脅迫的に個性を演出しているやつを見つけると安心した、ただ楽しそうなやつを見ると苛々した、ぜったいに負けてると思った、いつものことだけど。ふうん、たしかに、いつものことだね、きみってほんと、勝ったと思うのは一瞬で、実にしょっちゅう負けてるよね。そうだよ。みじめな人生だね、たしかにあの犯人みたいだね。そうだよ、みじめな人生だよ、あの犯人と同じなんだ。
 あのさ、賭けてもいいけど、仮に東大を出てたとしても、きみは、敗北感を持っていたと思うよ、たとえば偏差値の高いほうの学部じゃないっていう理由で、主席じゃないっていう理由で、あるいは、好きな女の子がこっちを向いてくれなかったから、自分が入れなかった特別なクラブに入った連中がいるから、もっと「いい」就職先に選ばれた人間がいっぱいいるから、もっと金持ちの家に生まれた人間がいるから、もっと、もっと、もっと、ねえ、私は、野菜が高いから河原に出かけてクレソンを採取して食べた若いころをみじめだったなんて思わない、フリマで五百円で買ったスカート履いてたのが負けだなんて思わない、優雅でうつくしかったと思う、今だってそうだ、たとえば、ふつうの顔した中年でいて、美しい人にも若い人にも負けたなんて思わない、学歴も収入もなにもかもきみより下で、きみに負けたなんて思ったことは一度もない。
 槙野は要するに、めし食って寝たら幸せなんだろうけど、そう思えない人間は、どうしたらいい、あの犯人だって、底辺だ底辺だって言ってて、ほんとうには底辺じゃないじゃないか、あの人より金がない人や人間関係がない人は、いる、でもね、ここが底辺だって思ってしまう、世界は三角形のかたちの地獄で自分が立っているのが底辺だっていつも、そう感じてしまう、だから彼は俺と同じなんだ。
 他者の評価を求めるなとは言わない、そういう精神がもはやできあがっていて、大人になっちゃってて、だから、他人の評価で生きるなとは言わないけど、その「他人」を選りすぐらないでほしい。なにそれ、まさか、わけもなく僕を愛する人はきっといるみたいな話?まさかあ、いや、そういうのがもしあればそれも含まれるけど、なくてもまったく問題ない、愛されてなくてもいい、でも他人があなたに感じる「嫌い」の、あるいは無関心の、あるいは「ふつう」の、中身を見てほしい、みんなちがう、ひとりひとりちがう、目まぐるしく移り変わる、他人は、みじめなきみの視界を埋めるみじめな景色なんかじゃない、そのことをどうか、忘れないでほしいんだ。