傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

弱者の毒薬

 男の人が泣くのを見たのははじめてだったから、少し驚いたけれども、いやではなかった。かわいそうで心が痛んだけれども、自分に心を許して甘えてくれるのは少しうれしかった。落ち着くまで頭を撫でてあげるのが好きだった。そんなにしょっちゅうではなくて、結婚するまで三度ばかりあったことだった。かよわい人なのだと思った。心のやわらかい、やさしい人なのだと思った。実際のところたいていの人は彼をやさしいと言った。彼女はそれがうれしかった。そのようにして彼女は彼の妻になった。
 彼らはともに職を持っていたから、家のことはあらかじめ決めて双方がおこなっていた。彼は時折それをできないことがあった。しかたないのねえと彼女は言った。笑ってそれをしてあげた。ありがとうと彼は言った。そのようなことが何度かあった。一度しなかったことを彼はその後もほとんどしなかった。してくれるかな、と彼女は言った。彼は何も言わなかった。彼女は待った。彼が自分の意見を言うのを待った。でも彼は何も言わなかった。彼女ばかりが彼を責め立てて言いつのっている。そのような光景が、彼らのリビングルームにしばしば生じた。彼は暗澹としため息をつき理不尽な災害に耐る人の顔をしていた。彼女が謝るとため息をついて寝室に姿を消した。寝室から鈍い音がした。何度か繰りかえし聞こえた。彼女は後悔した。その後彼は彼女に口を利かず、その期間はどんどん長くなるのだった。彼女は楽しく暮らしたかった。彼女は掃除をし、洗濯をし、料理をした。
 彼女にも家の何かができないことがあった。彼は黙った。黙って立っていた。彼女の心臓が大きくはねた。今日はごはんがないのと彼女は言った。あらかじめ隅から隅までてのひらでなでまわして攻撃性の棘を抜いておいた声だった。やさしくやさしく、傷つきやすい人にはやさしく、注文のようなことをするときにはことさら注意深く。結婚して二年目で、都度意識することもなく、そうするようになっていた。ごはんがなくてごめんね、家のことぜんぶやるの、正直きついの、事前にわからなくても仕事が遅くなることがあるの、だから今日はごはんが用意できなかった、ね、外に食べに行かない?彼は黙っていた。黙って立っていた。彼は彼女を見ていなかった。彼女はあわてて米を研ぎ、そうしながら言った。待ってて、だいじょうぶ?おなかすいたよね、ごめんね。振り返ることが彼女にはできなかった。
 残業は事前に届け出たけれども、事前であっても彼はやっぱり不機嫌だった。休日に出かけるときはいつも一緒だった。出かけていたのは最初の年くらいで、あとは自宅に呼ぶだけになった。愛されてるう、と友だちの誰かが言った。旅行の誘いは結婚する前からそれとなく断り続けて、だからもう誰からも来なかった。友人たちからの連絡は少しずつ減っていった。それでも時折携帯電話が鳴ると気が重くなった。そんなことより細部まで決まった手順を遂行してアイロンをかけたかった。アイロンはとくに守るべききまりが多いから注意深くやらなければならないのだ。携帯電話は邪魔だった。
 子どもができて仕事を休んだ。つわりもあまりひどくなかったから、家の中をぴかぴかに磨いて、毎日凝った料理をつくった。彼はとても機嫌がよかった。彼女の両親ときょうだいが訪ねてきた。彼は歓待し、それから、みんなが帰った夜中に壁を蹴った。彼女は小さくなって謝った。背中を丸めていた。何その格好、と彼はつぶやいた。まるで僕が子どもに悪いことするみたいじゃない?どうしてひどい目に遭ったみたいな顔してるの?僕を傷つけたのは誰?僕の家に自分の味方ばっかり集めたのは誰?その犯人が何でそんな顔してるわけ?人をずたずたに傷つけておいて被害者面か?お前がこの家の持ち主か?お前に泣く権利があると思ってるのか。彼女はなぜだか自分のてのひらを見た。びっしりと毒のついた棘が刺さっていた。二の腕にも、胸元にも、脚のすべてにも。
 あるよ、と私は言った。あなたには泣く権利があるよ。可哀想なのは彼じゃない。彼は可哀想な側に立って相手を動かすのがすごく好きで、乞食の服を着てみせていたけれど、心の中は王さまなんだよ。奥さんは自分と一体で自分の気に入らないことはぜったいにしないんだ。したらだめなんだ。彼は、と彼女は言った。嘘泣きをしていたの?ちがうと思うと私はこたえた。ほんとに悲しくて惨めで辛くてたまらなかったんだと思うよ。奥さんはいつも自分の欲求をかなえてくれるのが当然なのに、そうしないから、自分じゃないみたいなふるまいをするから、そんなひどいことされる自分が可哀想で泣いちゃったんだと思うよ。

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