読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

腫瘍を引きずり出す

 文章は上手くなくて良い。上手いなら幸いだけれども、特別に上手くなくても書きたければ書いていいのだし、書くのはたのしい。それだからみんな作文するといいですよ。そういう主旨でものを書くワークショップがあった。あった、というのは文字通り主催が他の人だからで、私はただその部屋をてくてくと訪れて「下手でも書くのはたのしいです」と言う係だった。ブロガーという名称で呼ばれた、いわばしろうとの代表だ。
 その部屋にはだから作文の好きな人たちがいて、主催側の、本を書いているような人とその手伝いのスタッフがいた。構えや思いこみを解いてなおかつ自分が読んでおもしろいものを書くためのしかけがほどこされたあとで、場は適度にほぐれ、人々はPCのキーボードをたたいたり、その場で書きあげた文章のプリントアウトと事前に書いてきたものを見比べて感心するなどしていた。
 じゃあマキノさん、そこ座っててくださいね、と主催者は言った。サーカスの団長の合図を受けた熊のように私はうなずいた。私はそこにいて、人々がこの場で書いた800文字から4000文字の(それが指定の文字数だった)作文を読み、野放図に感想を述べる。そういう手はずになっていた。向かいに女性が座る。細面の、開放的な笑顔の、愛らしい人だ。年齢がちょっとわからない。きらきらした若さみたいなものとやけにくっきりした皺が同居している。私は彼女が差し出した紙に印刷したプロフィールに目を走らせる。四十二歳、家事手伝い。
 気がついたらその文章を事細かに読んでいた。朝起きて夜眠るまでの、とても平凡な幸福についての話。カラフルで底抜けに陽気な、いい文章だった。少し軽薄だけれども、それがいやみになっていない。彼女はベッドの中で目覚めること、窓をあけること、掃除をすること、食事をつくること、いつものスーパーマーケットに買い物に行くことを、踊るように描写していた。つま先の硬い薄桃色のバレエシューズを履いて舞台に立っているみたいに。
 この筆者を傷つけるには言いまわしの陳腐さと事物の平凡さを筆者の人格に結びつければいいと私は思った。私にはそれができる。なぜなら彼女は、この部屋にきて私のところに来た彼女は、私の書くものを好きだからだ。プロフィールの端にそう書いてある。好意は隙だ。私の悪意あることばを通す隙間だ。私は幾通りかの傷つけかたを検討した。
 いい文章だ、ともう一度思った。目の前がさっと白くなり、私は自分の感情に気づく。すみませんと言う。くしゃみをしたふりをする。花粉症でと言う。首筋まで赤くなっているのが自分でわかる。私は、この人を憎んだ。ただの一瞬で途方もなく憎んでできるだけ深く傷つけようとした。へらへらした笑顔を取り戻して私は軽く頭を下げる。花粉つらいですよねえと彼女は言う。
 この人が悪いのではない。私はただ、「四十二歳家事手伝い」という文字列であんなにも激しく対象を憎んだのだ。内心でそのことを反復して私はひどくみじめな気持ちになった。私は、庇護されるものを憎んでいる。相手なんか見ないうちに、属性だけであんなにも激しく憎んでしまう。若いころに多少の苦労をした人間なんかいくらでもいて、その人たちはそんな憎悪なんか持っていないだろうに。
 大人であってなお庇護されているように見えるプロフィールをそんなにも憎むのは、要するに嫉妬なのだと思う。ずっと昔から自分の面倒を自分で見ていることを誇っているつもりで、何のことはない、単にそうせざるをえなかっただけなのだ。私は、ほんとうは、庇護されている者が妬ましくてならないのだ。誇らしく生きてなんかいないのだ。そう思った。さみしくて怖かった。
 きらきらしていますね、と私は言った。ただの日常が舞台で踊る踊りみたいだ。それを聞いた彼女はたいそう喜んだ。そうして言った。あのう私、死にかけまして、後遺症が残って、仕事もなにもできなくなって実家の世話になるしかないってわかったときはほんとに死んじゃおうって思いました、でも今生きてるとなんだかすごく楽しくって、それを書きたいんです。
 仕事ができないから死ぬなんてばかばかしいことだ。けれども私は思わなかったか。死ね、とさえ、つい数分前に、どこかで思ったのではないか。それに気づくことができたのはたまたま彼女の文章がすぐれていたからで、ふだんは気づきもせずにどこまでも薄汚い感情を育てているのではないか。彼女は言う。死にかけたことは書きたくないんです、楽しいことだけ書きたいんです。それがいいですと私はこたえる。それがいいですよ。とてもいい文章です。

【in the room 4】