傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

花と毒きのこ

 大学に入った年、教養の授業でテントを張って寝た。農学部が提供する集中実習で、夏休みに泊まりがけで農作業を体験して単位を得るというものだった。楽しそうだから取ってみたら女子学生は私ともうひとりしかいなかった。ガールズ、と老教授が言った。昼間私たちにきのこを取らせてそれを片っ端から「食えない、食えない、食えない、これは食える」と分類していた人だ。あんまり早いので適当に言ってるんじゃないかと私の後ろにいた学生がつぶやいていた。教授は言った。花のようなガールズ、この陰気な小部屋と私の自慢のテントとどっちがいいかね。
 女子学生が少なかったので宿舎のいちばん小さい部屋を押さえたら何とも陰気で、よかったら代わりに自前のテントを提供しようという、そういう話なのだった。私はもう一人の女の子の顔を見た。翳りのない大きい笑顔で、彼女はこたえた。私、だんぜんテントがいいです。
 ひとりで泊まりの授業に登録したの?まじで。すごいね。え、だってすごいじゃん、ひとりで平気?あ、もう私がいるからひとりじゃないね。うん私はね、彼氏と来たの。でも授業でべたべたすることないから適当にしてる。あとで紹介するね。マキノさん、えっと、サヤカでいい?学部どこ?そっかあ、頭いいんだね。ねえねえシャンプーなに使ってる?だって髪さらっさらじゃん。いいなあ。
 ひどく親切でおしゃべりで、けれども気がつくと私に対する質問のほうが多くなっているような、そういう女の子だった。夜は更けて、私たちは中庭のテントに入っていた。教授に借りた小さな電灯より、何人かの男の子たちがまだお酒を飲んでいるところから来る光のほうが明るかった。
 ひとつ年上で、けれどもこのあいだまで高校生だった私よりもうんと大人に見えた。彼女はおしゃべりしながら豪快に着替える。私はなんだかぽかんとしてそれを見ていた。それからこそこそと背を向けて自分も着替えた。私って棒っきれみたいだなと思った。振り返ると彼女はかなしいことなんかなんにも知らない人みたいに笑った。私も笑った。花と棒っきれのテント。
 で、その男の子、どういう子なの。なんでって、気になるよう。その子しか男の子が話に出てきてないもの。もっと仲良い人いるんなら別だけど。どういうタイプ?写真とかない?ああ私の彼はね、グレーのパーカ着てた、背これくらいの。
 話題を相手に差し戻してもいつのまにか私のところに戻ってきた。世界でいちばん関心があるのはあなたなんだとでもいうように。そう思って私はひやりとする。そんなはずはない。たまたま同じ空間で眠るだけのひとつ年下の女の子にそんなに関心があるはずがない。私は、ふだんは人の目をまっすぐに見るのに、どうしてか私は彼女の瞳の少しだけ下に焦点をあわせている。どうしてだろう。怖いのかな。怖い?こんなにやさしくてかわいらしいお姉さんが?
 目を合わせる。黒い。違う。空洞だ。私を見ていないんだ。何を見てるんだろう。たぶん「みんな」とか、そういうのだ。みんなが自分を大好きになるようにふるまっている。それがすごく楽しいから、この人はこんなにきらきらしてるんだ。そこまで考えてちょっと息を吐く。おかしなことを考えるのは晩ご飯のお味噌汁に入っていたきのこのせいだと私は思う。きっと毒きのこが混じっていたんだと思う。
 翌朝、布越しに全体が明るくなったテントで目を覚ますと、彼女はもう身支度をしている。おかしな夜だったなと私は思う。おはようございますと言う。おはようとこたえて彼女は笑う。その笑顔はやっぱりとってもすてきで、私も自然にほほえむ。テントの外から男の子たちの声が聞こえる。宿舎の窓や扉を開け放しているのだろう。みんな元気ねえと彼女は言う。先に行くねと言うからちいさく手を振る。彼女はテントのジッパーを引く。一夜の密室が消滅する。そうそう、と彼女は言う。男の子といるときにはね、あなたあんまり口きかないほうがいいわよ、黙ってにこにこしてるのが身のためよ、だってねえ、自分でも中身はどうしようもない人間だってわかってるでしょ?
 私がその話を終えると、彼はうーんとうなる。最後のはぜったい悪意、あるよな。あるでしょと私は言う。人を引きつけることに習熟して、それにおぼれてしまうと、自分を好きにならない人に苛々するんだと思う。「おまえは私に心を開かないから罰を与える」という発想が出てくるんだ、たぶん。でもね、心は開かせるものじゃなくて勝手に開くものだよ、勝手に開いたり閉じたりするよ、それをこじあける汎用的な魅力って、なんだかちょっと、暴力のにおいがするよ。

【in the room 2】