傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

足を踏み入れる

 彼は人に気に入られるのがとてもうまい。彼は感じがいいとみんなが言う。彼は高価な輸入車を売っている。同じ立場の社員たちと比べて、おそろしくたくさん売っている。彼は車がほしい男たちに気に入られて、気持ちよく高価な買い物をしてもらう。ほとんど会わないけれどときどき電話がある。その電話を取って、不機嫌なんて珍しいと私は言う。彼は言う。そうだよ、すごく苛々してる。週末、特急に閉じ込められてね。
 雪に閉ざされ停止して久しい特急の車内には人々の倦怠が満ちていた。隣の席の女はかばんを抱えてうとうとし、すぐに目をさます。ごめんなさい。そう言って肘掛けを乗り越えた自分の腕を引き寄せハンガーみたいな肩を縮める。邪魔だなと彼は思う。ちらりと見る。冴えない顔だ。冴えないんだからせめて若ければいいのにどうやらけっこう年だ。
 そう思って彼は自動的に彼女を分類する。女たちはあまり彼の顧客にならない。けれども男たちはしばしば妻や恋人をともなって買いにくるから、女たちについても彼はそれなりによく見ている。おそらく貧しいのではない、と彼は思う。財布の中身がたっぷりあってもぜったいに開けないタイプ。贅沢が嫌いで、ほとんど罪悪みたいに思っているタイプ。
 ぴったり閉じている、と彼は思う。顧客を見るとき彼の目にはその相手の開きぐあいが明確に見える。扉の大きさ、扉の外見、扉の状態が見える。内側から自然に開くことなんかない。いえ、いいんです、と彼は言う。こちらこそすみませんと言う。除雪、進んでないみたいですね。そうですねと女はこたえる。
 ごく控えめに彼はほほえむ。人を開かせるにはまず自分が開く。彼はそう思う。全開の玄関が向かいにあったら自然と自分のドアも開いてしまう。たいせつなものを壊せるところに通じる最初の穴をあけてしまう。みんなそれが怖くてできない。でも僕にはできる。僕は怖くない。壊されたくないものなんか持っていない。訊かれたらなんでも話す。事実に関する叙述はみんな本当。今このときの感情表現はみんな嘘。あたたかな関心。おだやかな好意。リラックス。
 会ったばかりの人間が自分に心を許しているように見える、自分を好きであるように見えるのはそれだけでたいていの人間にとって好ましいことだ。けれども女が相手のときにはただの好意では不都合なことがある。とくに、こういう堅そうな、ださい女は、出会いしなに粉かけられたと思ったら手でばんばん払って走って逃げる。そういうタイプだ。性別がないみたいにふるまったほうがいい。
 半ば意識しないまま、彼はそのようなことを考えた。女がぎこちなくほほえむ。彼はなめらかにほほえむ。断続的に彼らは話す。彼らの声はどんどん小さくなる。彼は慎重にカードを切る。彼がときどき電話をかける友人がいつか言っていた。インスタントに親しくなるために切るべきは第一に失恋のカード。第二に親子関係のカード。この種の話を交換するとその場はやけに特別な感じになってしまう。
 個人的なことを、彼らは話す。不自由な姿勢のまま眠りに就く。夜中に目を覚ますと女が自分の肩にもたれて寝息をたてている。彼はひっそりとほほえむ。列車は動かない。彼はふたたび眠る。目をさます。隣の席は空だった。

 お商売ならいいのですよと私は言う。お金のために短時間で人に好かれる技術に習熟しているのはね、まあ良いとしよう。けれどもその一時的な隣人は心を許したってお金はらってくれないよね。言っておくけどその女個人には一グラムも興味ない、と彼は断定する。ないだろうねと私は言う。彼の苛々の理由づけが今日の自分の役割だと私は知っている。
 利得も興味もないのにそれをせずにいられなかったのはあなたが不安だったからでしょう。不安で不快な状況に耐えられないからふだんから依存しているプロセスを繰りかえしたんでしょう、つまり、商売は言い訳で、あなたは人に簡単に好かれることに依存しているんですよ。それに気づいて苛々してるんですよ。へえ、と彼は言う。現実離れした物語を聞いた人の声をしている。私は少し楽しくなって話を続ける。
 そして彼女が連絡先も残さずに消えたからあなたはさらに腹を立てているんだよ。自分がこんなにしてやったのに執着しないなんてぜったいに間違ってるって。その女が自分にしつこく連絡してそれを完全に拒絶するところまでがあなたの理想で、彼女が実は自分を信頼していなかったことが耐えられない。入れてもらった部屋が彼女の部屋じゃなくてただの倉庫だったことに耐えられない。相手を見下しているからこそ、どうしても耐えることができない。

【in the room 1】