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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼は必ず満足しない

 たいていの人や状況に対して執着がきわめて少ないのが自分のいいところだと彼女は思っていた。仲良くなる相手はだからちょっとラッキィだねと、そう思っていた。適度に親しげに、感じよくふるまうことについて彼女には自信があったし、彼もそれを享受しているように思われた。
 彼女はうるさいことを言わなかったし、先の話はすべて淡い願望あるいは彼女に対する無責任なサービスとしてとらえた。突然の来訪はなんでもない顔で受け入れるか、なんでもないことのように断るか、した。しばらく連絡が途絶えてもとくになにもせず、ふたたび連絡があると、当然のように返信を出した。彼ってちょっと変わった人なんだな、と彼女は思った。なんか急にいっぱい会いたがったり、いなくなったりするんだな。そう思った。
 彼は彼女が彼のなにかを好きだと言うのが好きだった。そして好きなのはそれだけではないと言うのを待っていた。そのせりふを選ぶしかない場面に追いこまれつつあることを彼女は感じとった。けれども彼女はけらけら笑って彼の包囲網を吹き飛ばした。そのようなことが何度か起きた。
 あるとき、合鍵があったらいいのにと彼は言い、ないよお、と彼女はこたえた。それから、そこまで仲、良いかなあ、と思った。実質的に合鍵は必要ないのに、この人は家に行く間柄になったら即座に合鍵がほしくなるのかしら。合鍵コレクターなのかしら。合鍵をもらうと、とっても許容されているみたいで、うれしいのかしら。へんな趣味だなあ。そう思った。次の週、彼にメッセージを送ると、一ヶ月後まで返信がなかった。

 不思議なのはね、と彼女は言う。彼はべつに私に恋をしているのではないの。それで、彼は私が彼に恋をすればいいと思っているの。たぶんちょっとおかしくなるくらい恋をしてほしいの。そんなのってよくわからないよ、楽しくつきあうだけなら、恋なんて要らないでしょう。ていうかすごく邪魔だよ。私ががんがん電話かけたり連絡しないと怒ったりほかの誰かについて責めたり泣いたりしたら、めんどくさいじゃん。自分が恋をしているなら、相手に同じものを望むのもわかる。でも彼は、そうじゃないんだから、私が笑って感じよく話して少し親切にして、それで足りないものなんて、ないと思うんだけどなあ。
 私は彼女の部屋を見わたす。調度はどこか古めかしい、表情のいいもので、清潔なのに軽く乱されたところがあって、それから、住んでいるのが男か女かわからない部屋だと思う。彼女の食欲は早々に満たされたようで、私が持ってきた冷酒だけをつるつると飲んでいる。たっぷりの大根おろしを別の小鉢に入れて添えた、きわめて正統なだし巻き卵を私は褒めて、それから言う。あなたは善良だね。
 あなたは知らないかもしれないけれど、この世には愛されることが収入で愛することが支出であるような、そうしてとっても「お金持ち」であるような男たちや女たちがいるんだよ。彼らは愛さない。一方的に愛される。常軌を逸しているくらいの愛をむしろ好ましいと思う。激しい執着を求めている。それを得るためにだったら、ほとんどあらゆる手管を遣う。罠にかける、振りまわす、コントロールする、要求する、さみしくさせる。なんのやり方もぜんぶ知ってる、なんだってやってのける、めでたく誰かが彼や彼女に夢中になる。もちろん、激しい執着はしばしば相手をうんざりさせる行為を生む。それが限度を超えると彼らは相手を切り離す。切り離してなお相手が自分に固執することを彼らは望んでいる。何年も何年も自分のことを考えてほしいと思う。
 彼女はびっくりして空の猪口をくちびるに当て、一度おろして、また持ちあげた。私は彼女に軽く触れ、杯を満たしてやり、ほんとうだよ、と話をつづける。そういう人はいるんだよ。私は彼らを肯定しない、彼らと親しくなろうと思わない。でもなにしろ「お金持ち」だから、身なりもしゅっとしてるし、肌もぴかぴかしてて、きれいだと思うよ。彼はたぶんそういう人なんだよ。愛はほしい、いくつでもほしい、そうして自分のは、出さずにだいじにしまっておく。どうしてだろうね。愛も執着も、お金じゃないのにね。
 はあと大きく息をついて彼女は天井を向く。それからがばりとこちらを向き、まずい、と言う。まずい、そんなに卑しくなったのはどうしてなんだろうって思ったら、気になってきた。なんか、可愛そうで、かまってやりたくなっちゃった。マキノの言うのが正しいとしたら、気になってくるのは、あいつの思うつぼじゃないか。大丈夫だよと私は笑う。たぶん、その程度じゃ、ぜんぜん、満足しないから。