傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

透明な要求を捨てる

 癒されるねえ、と彼は言う。なにそれと彼女は訊く。なにって、つまり己の身の裡の回復が亢進し快いですね、という意味です。彼はそのように説明し彼女はからだの半分で寝返って皮膚でもって壁の温度を吸う。視界を走査する。たっぷり泳いだあとのシャワーの水分の空気に溶けたのと、半分ずつあけたビールの缶と、さっきまでのうたた寝の気配と、そのほかのなにも見あたらない。視線を内側に向ける。ちいさい刺をみつける。その輪郭を描写する。
 癒した覚えゼロだし、私なんにもしてあげてないし、だいいち癒しとかそういうの、嫌いなんだけど。だけど、と彼はその語尾を引きとる。だけど俺はそれを口にしたので、それであなたは。それで私は、不可解でやや不快、だと思う。不快になることない、と彼はねむたくて気持ちいい声のままで言う。だってあなたの嫌いな癒しは俺の言ったこととはなんの関係もないんだ。
 癒すなんて下賎な言い回しだよ、まったくのところ。俺は、勝手に癒される、なんていうか受け身じゃなくて、自発、あーしーた、はーまーべーを、さあまーああよーええばー、の、偲ばるる、の用法。癒してもらうんじゃないの、みずから癒されるの。だから私が癒してあげるーみたいなのはほんとずうずうしいと思う、おまえは何さまか、神さまか、とか思う、そんなの要求しない、だからね、安心してください。
 そうかと彼女はこたえる。じゃあ良い。ごきげんはなおりましたかと彼は尋ねる。はいと彼女はこたえる。俺はすっかり満足して、なんにも求めてないから、安心してください。彼はその語を繰りかえす。四十も近くなるとねえ、女の人にあれしてこれしてみたいなのはどんどんなくなる、俺はそういうの、もともと少なかったけど、さらに減ってる。だって自分のことは自分でできるんだし、そこにいること以上の、なんていうのかな、サービスみたいなのがあるだなんて思えない。それがどんなことかも想像つかない。いいなと思った誰かが物理的にそこにいて、こっち見て、話をしてくれる以上の作為なんて。彼女はちょっとびっくりして半身を起こす。それからもとの姿勢に戻って質問する。コーヒーのこと覚えてる。どのコーヒーだろうと彼は質問を重ねる。最初のコーヒーだよと彼女はこたえる。覚えてないなあと彼はつぶやき、彼女はそれについて説明する。
 彼は彼らのためのコーヒーを淹れて、コーヒーのむと尋ねた。飲もうと彼女はこたえ、それからすでに準備されているそれを見て、気が利かなくて、と言った。彼は完全に不意をつかれた人の顔になり、それから言った。いいかい、これからは、そういうのはなしだ。質問を要求と捉えるのはなし、自分が先回りしてサービスする側だと思うのはなし、気が利くだなんてつまらない価値観はなし。
 あのとき私はこの人は特別だなと思った。彼女はそのように語り彼は身も世もなく照れて布団にもぐりこみ、覚えてなーい、とフィクションの女子学生のような口調をつくる。彼らはたがいをどのようなものととらえているかを周到に口にしないまま日々を送っていたので、しまったと彼女は思い、それから、まあいいかとつぶやいた。
 そのような話を聞いて、素直だ、と私は彼を褒める。昔からそんなだったっけか。いや、変わった、と彼はこたえる。学んだんだ。素直じゃないと、損をするよ、結局のところ。こと個人対個人の感情の上に成り立つ関係において、駆け引きはトータルで損になると俺は思う。過去の経験から、と私は言う。過去の経験から、と彼も言う。
 してって言わないでしてもらおうなんて、要求するコストもリスクも背負わず何かをさせようなんて、まったく邪悪なことだと思う。気を利かせてもらうとか、「癒やしてもらう」とかって、先回りして自分の欲求を満たせって、そういう意味じゃないか。楽をして、借りもつくらないで、いい気分になりたい、そのためにすごく複雑な駆け引きをする。見えない要求で気づかれないように相手を縛って自分の都合のいいかたちにする。俺はそういうの、もう疲れた。考えてみれば、自分が好ましく思って一緒にいたい人と、水面下の戦いみたいなことするなんて、ばかばかしいじゃないか。
 私はもう一度彼を褒めて、それからこたえる。ばかばかしいけど、でも私たちはつい、それをしてしまう。だって先回りされて甘やかされるのって、とっても気分がいいものね。でももう私も、してって言ってしてもらいたい。だめって言われてしょんぼりしたってかまわない。そっちのほうがずっといいや。

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