傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

愛された子の副作用

 残業が長引いて駆けこんだ私を、中腰になり片手を挙げて彼はとどめた。走ることなんてないのに、室内で、快適で、お店の人も良くしてくれて、だから急ぐことなんてないのに。元同級生であるだけの私を相手にしても、遅れた待ちあわせに走ることを咎めるような、彼は善良な人物なのだった。
 そんなだからもちろん、本日の議題について、彼は深々と頭を下げた。申し訳ない、早々にだめになってしまって。私はみっともなく汗ばんだ額を遠慮なく拭い、椅子の背に上着をばさりと投げ、そっくりかえって宣言した。うるせえやい。謝るとか意味わかんない。生は今日なにが入っていますか。せりふの後半で視線を受けた顔見知りのスタッフがにこやかにベルギービールの銘柄を告げる。
 未知の生き物みたいにいいにおいのするグラスをぞんざいに掲げて私は口をひらく。おおまかな経緯は聞いてる。私は、ただあなたがたの出会う場を設けたので、あとはふたりが勝手に親しくなって勝手に別れたので、今日は仕事帰りに職場の近くで飲んでいるだけだし、申し訳ないとかほんとうに意味がわからない。彼はうつむいてほほえみ、ありがとう、と小さい声を出す。私はひどく苛ついて、ごく短いあいだ彼の恋人であった職場の後輩の話を思い出す。
 大切にされていないし今後もその見込みがない、というのが彼女の説明する別れの理由だった。よく聞いてみると大切にされていないのではなくって、相対的にいちばんじゃないのが、その理由なのだとわかった。彼は仕事熱心で、なにより子のある離婚した男で、だから子に会えるとなればいそいそと出かけていくのだし、専業主婦であった元の妻の生活が落ち着くまで、養育費に加えて元の妻の生活の費用を月々に振り込んでいた。
 仕事で月の半分は東京にいないからいけないんだ。彼はそう言って、うっそりと笑った。それに、最初に勤め先とポジションを言っていたからね。そのわりに自分に消費する額面が少ないと、おそらくはそういうことだろう。申し訳のないことをしたと思う。離婚して半年もしないうちに別の女性と親しくなろうなんてずうずうしい話だったんだ。そう口にしてからそれを彼に勧めたのが私であったことを思い出したようすで彼は狼狽し、私はそれを見なかったふりをして、彼はそれを察知し、それから、取り繕うためのすべてのしぐさを放りだして、空咳みたいな音で笑った。
 わかった、ごめんね、ですって。憤慨したようすで後輩は、別離を告げた際の彼の対処について私に訴えた。止めもしない。バツイチでもいいって思った私の気持ちとかぜんぜんわかってない。むしろラッキー?後腐れなく遊べてよかったみたいな?だいたい離婚したくらいで外国から妹がすっとんでくるとかおかしくないですか?シスコン?私は彼女に謝罪し、彼女は狼狽した。やだ、ちょっとやめてください、マキノさんにはべつに、怒ってないし、愚痴っただけで、ごめんなさい、だって関係ないじゃないですか、飲み会に呼んでくれただけだし、ねえ、なんで、どうしてですか、私のこと嫌いにならないでよ、マキノさん。
 でもきっと私は彼女を嫌いになったのだ。誰にも親切で姿が良くてそれから私や彼よりずっと若くて、だからきっと彼も彼女を選ぶだろうと、そんなふうに浅はかに考えて、実際に彼は彼女を選び、それから選んだことを後悔して、彼女の挑発的な別離のことばに乗ってそのまま姿をくらました。
 彼は彼の両親から十全に愛されて育ち、今は海外に嫁いだ妹をうんとかわいがって大きくなって、彼が愛し彼を愛する女性と結婚して子をもうけた。けれども妻になった女性は彼に心をうしなった。彼はそのことを理解した。彼は愛についてよく知っていた。だからその消滅を認識することができた。そのようにして彼は独り身に戻り、その後、おせっかいな元同級生がお見合いおばさんと化して世話をした彼女の、ありふれた打算の姿を、彼女のいくつもの衝立をまったくの無効にして、むきだしで見つめた。愛について彼は、よく知っていたから。
 ちゃらちゃらして女にもてて楽しくしてほしかったんだ、と私は言う。昔の友だちが離婚してぼろぼろになってるから、女の子を紹介したかった。ふたりを傷つけるつもりなんかなかった。愛し愛されて生きてほしいなんて、そこまで傲岸なこと、考えてなかったけど、でもそうなったらいいってほんとはちょっと思ってた。ごめんなさい。彼は顔を歪め、それを元に戻し、息を吸って吐いて、それからちゃらちゃらした男みたいな声を出した。ねえマキノ、そんなわけでだめになっちゃったから、また女の子、紹介してよ。