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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

モンスターのための絆創膏

 ホームパーティがはけるころ、彼が私の横を通り、グラスのテーブルの端に寄ったのを、手を伸ばして内側に動かす。おとうさんのしぐさ、と私は言う。小さい子が落とさないようにしている。彼はちょっとうつむいて、マキノは三歳じゃないのにな、と言う。たぶんこれは未練なんだ。俺もうあんまりおとうさんできないからさ。
 離婚したんだよねと彼は言う。私はさっき別の元同級生から聞かされたせりふを思い出す。あいつ参っちゃってて、たぶん自分で話すと思うんで、できれば聞いてやってほしい。なにかあったんだとは、だから思っていた。私は自分の想像力の不足を謝罪する。それから彼を見て、具合、悪いの、と訊く。謝られるのが、なんか、わからない、と彼は言う。落ち着かないんだ、仕事じゃなくて誰かといて、なにかがあって、それで自分が、悪いんじゃないのが。
 彼の妻とたがいに愛を告白している男性があって、彼は不意にそれを知って、男性にも妻があったから、全員を集めて話をした。自分にも悪いところがあったんだろうと彼は思った。出張がちだし、休みの日に子の世話をすると戻ってきた妻にいつも叱られた。流し台にはしばしばしずくがついたままだったし、洗剤だって使いすぎていた。でも妻に自分より親密な男がいるならもう終わりで、彼らの関係の詳細については、説明されるのも苦痛で、子どものこれからのことばかりを、やけに具体的に思案していた。妻とその相手はいろいろのことを言い、けれどもたがいを愛しているのはたしかであるとのことだった。相手の妻は彼の妻をなじった。彼は洗剤のことを考えていた。近ごろの、やけに少量でずっと泡をたててつづける食器洗い洗剤の、彼の妻の好む銘柄のことを。
 彼らは解散し、彼の妻は彼をなじった。彼がそれを暴露したこと、それも真っ先に自分にではなくって、四者全員を巻き込んだことは、許しがたい裏切り行為だというのだった。彼は動揺した。彼は言葉を選び彼女に話しかけた。返ってきたことばを、彼は理解することができなかった。この五年ほど漸進的に彼は妻の言葉を理解できなくなっていたけれども、いくらなんでもこんなにも通じないとは思っていなかった。
 両親を訪ねて頭を下げると父親は首を横に振った。彼より先に妻が両親を訪ねたということだった。妻は両親に、彼がいかにひどいことをしたか、涙ながらに語った。あの人は、と父親は語った。おまえが悪いことを何年もずっと伝えていたのにおまえはわからなかったと言っていた。でもおまえのしたという「悪いこと」は、ただ精一杯仕事と家庭での役割を果たそうとしているようにしか思えなかった。だから帰ってもらった。ひどいことをした人のように彼女は私たちを見ていた。盆正月に来てくれていたほがらかなお嫁さんと同じ姿なのに、何を言っているのかどうしてもわからなかった。彼は父親を見て、こんなに小さい人だったかなと思った。申し訳ないと思った。父親はかすれた声で言った。いいかい、なにがあったにせよ、片方が片方に罪悪感を持つようにと、ずっと伝えている関係は、異常なんだよ。そうは思わないか。
 それが半年前のことで、このたび離婚が成立いたしました。そのように彼は語り、ごめん、重くて、とつけ加えた。私は彼を睨み、それから宣言した。女の友だちを紹介する。彼はきょとんとして、なんだか半端に笑う。理解できないときいつもこうしていたんだろうと私は思う。そうして言いつのる。若い子のほうがよかったら私、後輩とかに頼む。そしたらおいでよ、格好つけておいでよ、ちゃらちゃらして女にもてなよ。もちろんそんなのは薄っぺらい遊びにすぎない、でもあなたは、愛した人がいつのまにかモンスターになって、ざっくり傷ついたのだから、まずはその上に、どんなに薄っぺらくっても、同じ種類の、つまり愛されるというような、絆創膏をはるのがいい。いずれ傷の空洞は、血でふさぐしかないんだから。
 そうだねと彼は応える。そうしてみるのがきっといいんだね。でもマキノはどうして、そんなことを考えるんだろう。どうして好きで結婚した人にことばが通じなくなるのに、たまに会うだけの元同級生はどいつもこいつも、俺と同じ言語を話すんだろう。わかるのはね、と私はつぶやく。私たちも私たちを愛する人に対して、モンスターになったりなられたりしたことがあるからだと思うよ。それからただの古い友だちのくせに誰よりもわかってもらいたかった人よりあなたをわかったような口を利くことを、申し訳ないと思っているよ。彼はうつむいてもう一度、ごめん、とつぶやく。