傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

弱者としてのレッスン

 爆発の音がする。グラスを手に空の光を振りかえって、華やかな戦争みたいだ、と彼女は言う。夜になったばかりの空が赤く光り、緑色がかり、うす青く陰る。部屋の灯りは落とされ、やや過密にそこにいる私たちはたしかに、逃げて隠れているようだった。私は少しだけ動揺して言う。その種の比喩を、私は臆病に避けているんだよね。不謹慎だ、みたいに叱られるから。ほんとうに爆撃を受けている人に申し訳ないと思わないのか、とか。「当事者の身にもなってみろ」と弾劾される事態を避けている。
 片方の眉を上げて彼女は笑う。年に一度の大きい花火大会の晩で、彼女の一家が住むマンションのベランダからは、やや遠景にはなるけれども、それを見ることができる。けれどもベランダは幾人もが座れる広さではなく、外気は日が暮れても有害なまでの熱を有して、だから火花に飽いた者は順繰りにリビングに入って、よく働く空調が吐き出す空気と控えめな灯りのなか、水滴を纏い酔いのまわる水で満たされたガラスを手におしゃべりをしていた。ベランダの透明な扉がまた開いて、彼女の夫と彼女の娘が手をつなぎ、暑い暑いとはずんだ声で言いながら、過剰に冷却されたリビングに戻ってくる。
 さっきのたとえ、と彼女は口をひらく。戦争に行った人が責めるなら私は謝る。不適切な比喩を心から謝罪する。けれどもそうじゃない人が言うのは気にしない。謝らない。そして辞めない。私はその断定の力強さにすっかり感心して、ぼそぼそと賛辞をあらわす。私もそんなふうに気を強く持ちたいなあ。そうでないとインターネットでものを書くのもちょっと、窮屈で。不適切になりそうな比喩のまじった作文は仕舞ってあるの。でもそんなのも、つまらない話でねえ。粘っこくけちをつける精神もそれにダメージを受けてわけのわからない遠慮に至る私の精神も、まったくもって、うんざりする代物にみえてねえ。彼女はうなずいて小さい娘の額をぬぐってやり、ついでのように手を伸ばして、娘の父である男にも同じようにする。撫でてもらったと父親は言い、よかったねえと娘が言って、ふたりはうふふと笑いあう。父と娘はそれから、花火の音がいかに多様であるかについて話しだす。父と娘が次々に発明する妙な擬音に、別の誰かが笑う。父と娘も笑う。母も笑う。そしてもう一度、私に向き直る。
 被害者としての不快感を表明できるのは被害者自身だけなのよ。彼女はそのように宣言する。被害者に不快感を表明する手段がない場合や判断力が未熟な場合は代理人がそれをするけれども、代理人は越境を深く慎まなければならない。そしてあなたに文句を言うのは誰かの正当な代理人ではなかったのでしょう。それならマキノの自粛は少しも正しくなんかない。そして赤の他人が代理人みたいな顔して被害を言い立てるのは、ほとんど盗みのようなものよ。「当事者の身にもなってみろ」?自分が一切の責任を負っていない他人の「身になれている」だなんて、どうして確信できるの。なんてずうずうしい勘違いなの。そう思う、いつも。そいつらは「身になっている」人間のことなんかちっとも考えていない。賭けてもいい。あいつらはただ弱者として目をつけた誰かの抗議の権利を横からかすめとって、あるいはそれを偽装して、別の他人に言うことを聞かせたいだけ。そうして正義の味方みたいな顔をしていい気分になりたいだけ。あいつらは卑しい泥棒で、そんな連中の言うことを聞くなんて、彼らが「身になっている」と称する弱者に対する侮辱ですらある。
 私は少しうつむいてそうだねと、とても小さい声を出す。つまらない自粛なんかして、私はとても愚かだったね。やだあもう私、語っちゃって、と、どうしてか子に向かって彼女は浮ついた声をあげてみせ、子は私のほうを向く。花火きれいだった、と訊く。私はかがんで、とってもきれいだったよとこたえる。おうちから見せてくれてありがとう。いえいえと、おどけた口調で子どもは応える。それから不意にぱっと赤面し背を向けて、母親の後ろに隠れてしまう。
 花火を見るためのホームパーティがこの子に対する加害だと言う人間はきっといるのだろうと、私は思う。それはどこかにいて、この家族にその語を浴びせるのだろう。さっきの彼女の勇ましいせりふは、そのような想定のうえでの宣誓なのだろう。それは私たちが弱者とされる側に立つときあるいは立たされるときにそなえて、周到にレッスンしておくべき教科のひとつなのだろう。私だってある種の弱者で、だから私も、それについて学んでおかなくてはならないと、彼女は言いたかったのだろう。私はそのように思う。彼女の娘は目が見えない。