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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

良い恋人と悪い恋人

 あーん、と彼は言う。きまじめな顔をして果物を食べている。桃とさくらんぼ、と彼女は思う。ピンクばかりの組み合わせだなあと思う。それを彼自身の口に運ぶよりほかに彼の手は使用されていなくて、もちろん彼女も同じだった。彼らは落ち着くべき年齢で、少なくとも表面上は落ち着いたふるまいを身につけていた。だからそれは彼らの語彙としてはあまりに奇妙なのだった。あーん。彼女は小さい声でそれを繰りかえす。親しい相手の言うことが不審であるとき、彼女はときどきそのようにする。その声音からは非難がましさの棘がきれいに抜けている。
 彼はそれをさくらんぼのへたと一緒につまみあげる。あーん、って、いつかやろうと思って。いつかって。あなたがうんと年をとったら。あなたが年をとって弱って、面倒な事情も感情もみんな摩滅したら、そうやってものを食べさせたいなあと思って。彼はそのように言う。四六時中なにもかもについて面倒を見るのはじいさんになった僕には難しいだろうからちゃんとプロを雇う。そして基本的にプロの指示にしたがう。けれども僕があなたに、果物だとか、なにかやわらかくってすっと喉を通るものを食べさせることくらい、あるいは、もう少しちがうことをするくらいは、許してもらえるんじゃないかと思う。あなたが年をとって、なにひとつできなくなって、誰のことも、よくわからなくなったら。

 ごめんね、僕なにかした?なんにもしてない?そんなの嘘だよ、そうだよ、みっちゃんが怒るんだ。訴える声にうなずいて彼女は尋ねる。みっちゃんはだあれ。みっちゃんはね、僕のおよめさん。彼女はとっさに後ろを向く。祖母はいない。彼女は安堵する。そうしてなぜだか尋ねてしまう。みっちゃんのこと好き?みっちゃんだいすき。みっちゃん、怒るとなにする。スプーン投げる。どうして。うまく食べないから。彼女と祖父の声が完全に聞こえる障子の向こうに、いつのまにか祖母の影が映っている。彼女の祖母は、名をトシエといった。
 祖父はほどなく入院して、もうそろそろだめなのだと、誰かが言っていたから、中学生の彼女は重い気を押して何度か祖父を訪ねた。自分をみっちゃんと間違えないかと思ったけれども、一度もそんなことはなかった。祖父にはそのようなエネルギーがもう残っていないのだろうと彼女は思った。祖父はただ弱って、あんまり動かなくって、混乱しながら会話が成立していた時期はほんのわずかだったことに彼女は気づいた。もしかすると祖母と私しか、みっちゃんのことを知らないのかもしれない、と思った。祖父の大好きなみっちゃんがどこの誰なのか、彼女にはとうとうわからなかった。

 そんなわけだから、と彼女は言う。弱った他人の面倒を見ることに感情的な期待なんかしないほうがいいよ。だって弱った他人はみっともないしめんどくさいもの。あなたきっと頭にきて私にスプーン投げるよ。時にはそういうこともあるかもしれないねと彼は言う。でも、あーん、もするだろう。僕はどうしようもない楽天家なので、「みっちゃん」はおばあさんが怒ったときにしか出てこなかったというような想像をするんだ。彼女は首をかしげる。彼は話す。
 あなたの話に含まれる情報が少ないので成立する仮説なんだけれど、それから僕が余所さまの親族について身勝手に妄想する恥知らずだから口にできることなんだけれど、おじいさんは怒った奥さんがいやだったんだと思う。それで怒っているのを別の人にしてしまったんだと思う。みっちゃんというのが、おじいさんがいつか好きだったけど嫌いだった、たとえば昔ふられた女の子なんかだったらいいなと思う。そうやって奥さんを分割したんじゃないかと思う。小さい子が自分のなかに良いお母さんと悪いお母さんを作るみたいに。もちろんおじいさんは小さい子じゃないけど、僕だって疲れたらそんなふうにするから、他人もそうするんじゃないかって思う。やさしいのは良い恋人、怒っているのは悪い恋人。片方を別人みたいに感じることさえある。
 みっちゃんというのが「悪いおよめさん」につけた名前だとしたら、と彼は言う。トシエさんは良いおよめさんのままだ。いつもやさしくって、自分の面倒を見てくれるんだ。うんと弱って混乱した人にとって、すごくいいやり方だと思う。なんなら今すぐまねしたいくらいだ。
 疲れているのと彼女は尋ねる。そうでもないと彼はこたえる。ほんとうにぼろぼろに疲れていたらまねしたいなんて思う前にそうしているよ。たしかに、と彼女はうなずいて、ぬるくなった桃を口にはこんだ。