傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

身動きなんかとりたくなかった

 ところで、ついに結婚することになったんだ。彼は晴れやかに言い、私はわあ、すごい、おめでとう、と口にしてから、声が大きすぎやしなかったかと、周囲をそうっと見渡した。それが終わらないうちに続きのせりふが届く。弟が。その報告をしたときのやつの得意そうなことときたら。ドヤ顔とはこのことかと思ったね。今の倒置法は、わざとじゃないのか、と疑念をこめて見ても、彼は澄まして皿の上のアスパラガスを切断しているばかりで、しかしやはりずいぶんとうれしそうではあるのだった。
 弟の彼女が従姉妹なものだから、なんだか彼らがただ一緒にいるのに馴れてしまって、それがずっと続くような気がしていたんだけれども、当然ながら時間は流れているのですねえ。彼はそのように言う。流れていますねえと私はこたえる。私たちは順調に老いていて、いつかは、もしかするとすぐにでも、まちがいなく死ぬのですねえ、と思う。それはとても、いいことだ。
 彼女、仕事ばかりで身動き取れないみたいだったけど、最近はもういいの。私が質問すると、よく知らないけど結婚の準備ができないほど彼女が忙しくったって弟がどうにかするだろうと彼はこたえる。なんのためのオールド・ファッションドだ。歴史と伝統の力を発揮し今こそ定時に退社すべきだ。彼は彼の弟の奉職する古くからある企業と古くからある職種をオールド・ファッションと呼ぶ。対照的な職業生活を送る自分はなにかといえばフラッパーなのだそうで、そんな死語を持ち出すなんてフィッツジェラルドでも好きなんだろうと思っていたけれども、どういうわけだかあの作家は嫌いなのだと、いつかそう言っていた。
 あなたは、と、彼は話題を保持し、その向きだけを変更する。近ごろはどうですか、身動きとれていますか。うんとれてるよ、ちゃんと休んでる、私がばかみたいに働いていたのはこの二、三年だけで、それがある程度は戻ったっていうか、戻ってはいないんだけど、自分でコントロールする余地ができたんだよね。私はそのように説明し、でもそれが少し残念なのだと、小さい声で白状する。あのさ、仕事に引きずりまわされて、泥みたいに疲れて、ベッドの中に人型の穴があいててそこに泥を流しこむみたいな眠りかたをして、生乾きのまま朝になって、自分をベッドの穴から引きはがして、内側のぐずぐずをごまかしてまた仕事に行くのって、わりと、気持ちいいよね。わりとじゃない、だいぶ。彼はそのようにこたえる。気持ちよくなかったら誰もワーカホリックになんかならない、あれはちょっと逆らえない気持ちよさだよ。
 僕は思うんだけど、あれは熱を出した子どもの感覚なんだ。熱があるからどこにも行かなくていい、熱があるからなんにもできなくっていい、そういう、免除を得た感覚。世界はたのしいけれど同時におそろしいから、今日はいいのって、お熱があるからねって、そう言ってもらえるのは、うっすらうれしくって、みんなに取り残されていて、でも特権を得ていて、そういうみじめな特別さも、きっと好きだったんだ。彼はそのように語り、私は、ワーカホリックはなにから取り残されている、もしくは何を免除されているのと訊く。こまやかな感情であるとか面倒な問題であるとか、あるいは、他者そのもの。私は彼の回答を手に取り、目の前の皿に載せ、フォークで刺してジュレにまみれた雲丹をからめ、他者そのものって、と尋ねる。
 だってああいうとき目の前にまっとうに独立した他人はいないじゃないか、と彼は笑う。女の子はいいのよいいのよあなたはお仕事で忙しいんだからっていう、おかあさんか看護師さんみたいな、保護機能みたいなのになっちゃうか、文句言っていなくなっちゃうかで、友だちは似た者同士の、鏡みたいな、相互承認供給機みたいなのになって、そういうのって、他者とはいえないよ、実際のところ。
 私はすっかり感心して、伊達に筋金入りのワーカホリックなのではないねと言う。いや現役だったらそうは思えないと彼はこたえる。認めたくない事実ではあったけれど、世の中には毎日まっとうな時刻にきちんと眠って週末の一日は休まないとできないたぐいの仕事がある、少なくとも僕はそうしないとその仕事を求められるクオリティで出力することができなかった、とても悲しいことに、そんなわけで、僕にとってもあの感覚は過去のものなんだ。
 でもね、と彼は言う。小さい声で言う。そんなのはとてもいやな、かなしいことだよ。僕はずっと熱を出して、それよりほかになにもしなくていい、免除された人でいたかった、ずっとそれにとらわれて、身動きなんかとりたくなかった。