傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

いっちゃんとミーコの場合

 電話とか返信とかしなくて、いいんですか。そう尋ねると、いいのいいのと彼女はこたえて、どことなくチョコレートとナッツの匂いのする赤いワインをすいすい飲んでいる。年上の女の人にお酒を飲もうと連れ出されるときにいつもそうであるように私は、なんだかひどく安心して、そうして相手の話を聞くことを、ずいぶんと楽しんでいる。たいした用件じゃないのよと彼女は言う。いまモンテビデオ、って来ただけ。
 モンテビデオ、と私は繰りかえす。ウルグアイ、と訊くと、ウルグアイ、と彼女はこたえる。うちの人、今度はどこ行ったかなと思ってたんだけど、南米方面みたいね。私はそのせりふからいくつかの妄想を繰りひろげ、それを三秒でおさめる。私の目がぴかりと光ったと言って彼女はずいぶんと笑い、このところあの人そんなかんじなのと、愉快そうに話した。突然どっか行って、行ってから連絡が来る。次はどこかなって、私は思う。あの人、仕事してないから、くびの心配もないしね。あのう、差し支えなければ、その方の、お名前ですとか呼び名ですとか、と私は言う。結婚している人に対して私はときどきそのようにお願いする。私は役割の名称で誰かを指し示すのが好きじゃないし、それに、誰かが自分の好きな人の名を口にするときのようすを好きだ。友だちが恋人や伴侶につける妙なあだ名も好きだ。いっちゃん、と屈託なく彼女は言う。
 ミーコそれはいくらなんでもへんだよ。いっちゃんは静かにそう言った。十年と少し前のことだった。彼女は仕事ではまだ見習いみたいなもので、収入も少なくて、いっちゃんはもう一人前で、彼らの生活基盤の大半を支えていて、だから私はいい奥さんをちゃんとやるんだと、そのように彼女は思っていた。でもふたりの小さな部屋には掃除するところだってそんなにたくさんはなくって、洗濯ものだってそんなにたくさんはなくって、アイロンをかける服を、いっちゃんはろくに持っていなくって、だから彼女は、それらを済ませると、いい奥さんとはどのようなものかを調べ、それを実践した。夫の帰りが遅くても起きていて出迎えるだとか、いつも夫より早く起きるだとか、夫の使う前に水回りを掃除するだとか、そういうのだ。いっちゃんは妙な顔をしていたけれども、彼女が彼の足下にかがんで靴下を脱がせようとするに至って、とうとう明瞭にそれを止めた。
 自分の仕事と過剰な家事とよくわからない世話焼きで過労状態にあった彼女に、うんざりだと彼は言った。こんなのはうんざりだ、散らかせ散らかせ、なんで風呂に髪の毛一本落ちてないんだよ、なんで自分が入ったあと必ず掃除するんだよ、そんなのおかしいだろ、それじゃミーコが、汚れをつけて歩いてるみたいじゃないか。そうして自分が台所から締めだされていることについて延々と不満を述べながら残りものでざざっと晩ごはんをつくり、ふたりぶんの皿を無造作に置き、ぱん、と大きく手を鳴らして、いただきます、と宣言した。
 四ヶ月ばかり前、彼の勤め先があっけなく倒産した。彼女は心配していなかった。彼女はもう見習いではなかったし、養うべき子がいるのでもなかった。彼が働かなくても彼らの生活は成立した。ひと月も経ったころ、最近すごく元気ですねと彼女の同僚が言った。たしかにそうだと彼女は思った。朝に起きると、ようし、今日もやるぞう、と思う。職場に着くとびしっと背筋が伸びる。張りあいというやつかしらと彼女は思う。大黒柱の気持ちというやつかしら。
 反対にいっちゃんはしおしおしていた。どうしたのと彼女が訊くと小さい声で、いちおうプライドというものが、だとか、ミーコにはぴかぴかの学歴があるのに自分は、だとか言うのだった。ぴかぴかの学歴なんてものに興味があるとは知らなかったな、と彼女は思った。ある日帰るといっちゃんはいなくて、あらまあと思っていると三日後、ハバロフスクにいるというメールが来た。ピロシキを食べましたかと、彼女はメッセージを返した。食べましたという返信があった。ピロシキと、ボルシチも食べました。おいしかったです。ピロシキは具が米のやつがあって、これはおいしくなかったです。
 ロシアから戻ってきたら、いっちゃん、わりと元気で、と彼女は言う。それから何回かいなくなって、今回はいちばん遠いんじゃないかしら。私はすっかりいっちゃんが気に入って、世界一周自分探しの旅とかするといいんじゃないですかねえ、と言う。貯金がもうなくなるって言ってたから、無理だと思う、と彼女はこたえて、なにかのついでのように短く文字を打ち、それから私をまっすぐに見て、うれしそうに破顔する。