傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

どうしてあなたは死ななくていいのか

 そのとき彼は動かなかったし、なんにも言いやしなかった。けれども彼はあきらかにどうかしていて、そのことは幾人かの人には自明だった。会議の途中の休み時間で、コールバックしたばかりと思われる電話を、彼は手にしたままだった。誰かが私とあとひとりに目くばせして、それからひどく上手に、彼に声をかけた。なにかありましたね。帰ってもだいじょうぶです、あとのことは僕らがぜんぶやります。声をかけた人はそのようなことに慣れているのかもしれないと私は思った。それくらいそのせりふはつるりと整えられていて、だから彼だって、それをいつのまにか飲んで、気づいたら胃に落ちていたのだろう。
 彼は仕事上のいくつかのこととそれ以外のひとつのことを、仕事仲間である私たちに依頼した。仕事でない依頼は彼の委任状を携えて職場の近くの託児所に行き、そこにいるふたごの女の子を、何時間かのあいだ預かるというものだった。はあいと私は手を挙げ、控えめに同じ意思表示をしている後輩を助手として指名した。小さい子がすごく得意というのではないけれども、数時間の面倒なら見ることができる能力と経験が私にはあった。それに私は彼のふたごの女の子を、わりに好きだったのだ。会ったというほどのことはなくて、ただ一度、目撃しただけだったけれども。
 彼は職場の近くの道をさっ、さっ、さっと歩いていた。四歳か五歳とおぼしきふたごは上等で簡潔な格好をして、ショウアップされた行進みたいに、さささと彼のうしろをついて歩いていた。もう少しゆっくり歩いてあげたらいいのにと私は思った。でもそれは悪くない光景だった。オフィス街を闊歩するひどく姿勢の良い父親と、そのふたごの娘。世界を救う使命を帯びているかのように、粛々と彼らは歩いていた。
 ごはんを食べましたかと尋ねるとふたりははいと大きい声でこたえ、私は彼女たちをいっぺんで気にいった。それではおばさんのおうちに行きましょうと私は言った。道中、ひとりが私たちの手を振りほどいて鳩を追いかけ、私はすごく大きい声で聞いたばかりの名を呼びながら走って子どもをつかまえた。私は足が速いのだ。今度あかるい時に鳩に餌をやりに行きましょうと私は言った。それはそれはたくさんの鳩がいるお寺がある、おばさんの生まれたところの近く、そこに一緒に行きましょう。子どもは不意に泣いて、私はどうしてか、あんまりうろたえないで歩いた。
 あのときの子どもたちは三年生になりましたと彼は言った。近ごろは一緒に仕事をする機会もなくって、久しぶりに顔を合わせた彼は、スマートフォンに記録された娘たちの写真を見せてくれた。大きくなりましたねえと私は言い、あのときはごめんなさいと彼は言う。四年前におんなじことあんなに言ったじゃないですかとたしなめると、そうじゃないんですと彼は言った。私はあのとき、マキノさんがどうして死なないのかと、そう思ったのです。
 あの電話は妻の急変を知らせるものでした。病気を知らされて七ヶ月が経っていた。死ぬと思っていましたよ、そうしてそのあと死んだのですが、それは別の話です。妻がいったん持ち直して子どもを迎えに行ったとき、マキノさんは子どもたちと遊んでくれていた。見るからに元気でご機嫌で、子どもの手をとって、どうしてそんなふうなのが、あの愛らしい妻ではないのか。痛みにのたうちまわっておそろしいほど痩せこけてもう美しくなくって性格までおかしくなってきっともうすぐ死ぬのが、どうしてこの人ではないのか。あのときにね、そう思ったんですよ。
 私はうなずいて視線だけで続きをうながす。彼は私を見ない。ただ話している。自分かわいさに化け物になってしまったと思いました。かわいそうな自分を心のなかでだいじにだいじに甘やかして、それでとうとう、卑しくて小さい、醜いお化けになったのだと。
 お化けではないです、と私は言う。そんなの当たり前のことです。私はどうして自分が死なないで苦しまないでのんきにたのしく暮らしているのか心底わからない、どうして私が死なないでいいのかと、ほとんど毎日思っています。それだからそう思うのはちっとも悪くないです。彼はお化けを見る目で私を見ている。私は笑う。お化けじゃないですよ、お子さんと歩くとき、いつもよりはすこうし遅くしていますね、あのとき子どもたちを連れて帰るのを見て、私、それに気づきました。そういうのに比べたら、誰かがどうして死なないのかと思うなんて、まったくどうでもいいことじゃないですか。彼は小さくかぶりを振り、私はそのしぐさをの意味を、とうとう少しも理解することができない。