読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

その世界を保存する

 結婚退職する社員の送別会に出て、けれども部署もちがうしそんなに多くの接点があったのでもないから、一次会で手を振って別れて、親しくしている同僚ふたりと、別の場所に移動した。夜で、金曜日で、洞窟めいた細長い店の、いちばん奥のテーブルのぐるりに座って、女ばかりで、私はなんだか、嵐の終わりを待っている原始人になったみたいな気持ちする、と思う。
 後輩がフルートグラスを軽く掲げ、いやあ正直ほっとしました、と言った。先輩が自分のグラスを手に取ろうとしてやめ、手の置き場に困ったように動かしたあげく、膝の上に置いた。磯西さんとなんか、あったの、と訊くと、後輩は大きい声でいかにも愉快そうに笑い、マキノさんはのんきでいいなあと、そんなことを言う。後輩は入社四年目で、そのあいだ三度ばかり、辞める社員とふたりで話す必要が生じたのだけれども、いちばん小さい会議室でおこなわれた話の半分以上が業務内容から離れていて、ではなんだったのかといえば、服装だとか、特定の人との関係性だとか、あるいは口調だとか、そんなことについての話なのだった。話というか、非難、と後輩はまとめた。なんかね、秩序を乱すらしいですよ。私はちょっとびっくりして反応が遅れた。だって、あなた、ぜんぜんそんなこと、ないじゃない。そう言うと磯西さんはそう思わなかったみたいですねと後輩は言う。すれちがいざまに「何度言ったらわかるのかしら」って吐き捨てられたこともあります。
 そういうことは、言わなくてはだめだよ。私は諭す。どう考えても働く人間として正しいふるまいではない。私たち知らなかった。そう言って先輩を見ると先輩はますます狼狽して今度はグラスを必要以上に強く握っているのだった。この先輩はお芝居というものがひとつもできないのだ。問いつめると先輩は、だって、マキノは、いやな目に遭ってないでしょ、と小さい声で言う。遭ってないどころかものすごい親切にされてましたと私はこたえる。さっき相手によってはそうじゃないって知って、そりゃあびっくりしました。
 磯西さんはいつも、ほとんど甘いといっていい口調で話す人だった。私にはそうだった。年に何度か彼女が私に声をかける必要が生じ、すると彼女は私の席の横に来て膝を折り、子どもにするように目の高さをあわせて、たとえば私の書類のまちがいを指摘するときには、私が書き直すのを見ていて、ここはこう、ここはこうと、いつもきれいに塗っている爪の先でモニタを指さし、こまやかに教えてくれるのだった。まちがえてごめんなさいと言うと高い声で短く笑って、書類がわかりにくいのが悪いんですと、そんなふうにこたえる。私がカーディガンを裏表に着ていたら遠くの席から見とがめてさっと来てくれて、口元に手をあてて私の耳に近づけ、マキノさん上着が、と教えてくれる。そんなことが幾度もあった。
 そのように説明すると、幾度も裏表だったんですかと後輩が訊く。いや、それはたしか二回くらいで、あとは、シャツのボタンがいっこ取れてたとか、ポケットの布の内側に入っているべき部分がべろっと出てたりとか、そんなの。私の回答に後輩は片眉を上げ、大人とは思われない、と切って捨てた。私は後輩をつくづくと眺めて仮説を立てる。磯西さんはほんとうは親切な人で、でも若くてきれいな女の子にはどうしてもきつくあたるとか、そういうのかなあ。いや私マキノより年上だけどけっこうきつかった、さすがに年長者に向かって説教はしなかったけど。先輩はそのように話し、私は磯西さんのことよりも先輩の落ち着きのなさが気になってしまう。ようすが変ですよと言うと先輩はだってさ、と言う。マキノは、知らなくていいことだったのに、この子がばらすからさあ。この世に知らなくていいことなんかないですと後輩は反論する。あるよと先輩は言う。もう会わないんだから、知らなかったら、マキノの世界で、磯西さんはずっと、いい人でいられる。私は磯西さんを、べつに好きじゃなかったけど、でも、磯西さんはマキノを好きだったみたいだから、うん、へんな意味じゃなくて、とにかく、好きでもう会わない人の中では、かわいくっていい人のままでいさせてあげたいって、そういうふうに思ったんだ。ポケットの裏地がおもてに出てるなんて、相手を見ていなかったら、気づくはず、ないよねえ。私は、磯西さんを、別に好きじゃない、でもそういうふうに人を見ることを、どうしても肯定したくなってしまうの。マキノの世界のなかの彼女を、かわいくってやさしくって親切な女の人のままでいさせたかったの。