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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

贅沢な労働

 憤懣やるかたないのでちらし寿司を食べたいのですが、とメールを送ると、火水金OK、とだけ返信が来た。会社の近くに評判のお鮨屋さんがあって、ランチが手頃でとっても美味しい。武田さんは軽く手を挙げ、私は軽く頭を下げる。マキノさんちょっと痩せたようですねと彼は言い、引きしまったのですと私はこたえる。武田さんは白髪染めはじめられたんですか。尋ねかえすと彼はうんうんとうなずいて、白髪そんなにいやじゃないんだけど、妻と娘がそのほうがいいというからと、そんなふうに説明した。
 親しいというには会う頻度が低く、ひとまわり年長の、なんだかえらい人ではあるんだけれども、武田さんのことを私は、入社したときからなんとなく近しく思っていた。武田さんはまだ三十代だった当時からずっと、どことなく乾いた質感の、体温の低そうな、ほっそりと小柄な人で、驚くほど偏見というものに縁がなくって、そのうえ私の日常業務とはほとんど関係しないところにいて、だから私は武田さんを、遠くからうっすらと頼りにしていた。
 このあいだみんなで飲みに行ったらですね、私のこと、便利に使われてるって、必死ですねえとかって、人前で笑うやつがいたんですよ、私が、ばかみたいに働かされて、はいはい言うこと聞いてる都合のいいやつだって、そう言いたいみたいです、あいつどうやってぎゃふんと言わせてやろうか。ちらし寿司が来る前から私はぶつぶつ愚痴を言い、武田さんは口の端を上げる。答えなくって良いんですが、そういうこと言うやつは、なんとなく見当がつく。単数ではないですと私は言う。二度目です、それ言われたの。私どんだけ便利ですか。
 便利に使ってくれないという理由で部署を代えてもらったことがあります。武田さんはそう言い、私は箸を止める。武田さんは湯飲みをきちんと置いてからふたたび口をひらく。自分が選んで自分が選ばれて入った職場で便利に使われるのは、とてもいいこと、楽しいことですよ。そうじゃありませんか。僕らは組織の中で自分の能力を発揮したいのだから、便利に使ってもくれないところに長居したってしかたない。僕はそう思います。マキノさんはどうですか。
 私はいくぶん小さい声で返答する。私もそう思います。私のこと、いちばんいいように使ってほしいです。周囲とくらべて待遇がひどかったら搾取?とか思うけど、そういうのじゃないし、期待してもらえるの、うれしいし、だから、私は、幸せに仕事してると思うのに、からかわれるとうろたえる、それは、私自身のなかに、もしかしたら彼らと同じ感覚があるからかもしれないです、それが腹立たしいので武田さんとごはんを食べています。彼らと同じ感覚、と武田さんは繰りかえす。その感覚の正体がマキノさんにはわからないから、やたらと腹を立てているんだと僕は思います。なに、たいしたものじゃありませんよ。私はしげしげと武田さんを見る。武田さんは話す。
 彼らはコストパフォーマンスを求めています。同じ給料ならなるべく少ない労力でもらうのが利口なんだと思っています。だからマキノさんみたいな、「効率の悪い」働きかたを揶揄する。どうですか、つまらないでしょう。私はびっくりしてちょっと黙ってしまう。私だってコストパフォーマンスを求めるけど、そこに含まれるのがお金と労力だけって、なんていうかあまりに、貧しくはないですか。武田さんはひとさし指でとんとんとカウンタをたたく。機嫌がいいときの癖だ。
 そう、僕らはそう思う。経験やそこから得られる能力や、よき人間関係や、職業的なふるまいが生活習慣や性格に与える影響なんかをコミにして、報酬だと考えている。私はうなずく。それに私、職場で暇だとすごく不安になるから、やること多すぎるほうがましかなあと思うんですよね。そのようにマイナスの報酬についても僕らは考慮する、と武田さんは述べる。でも彼らはそうではない。同じ品物が売っているなら安いほうの店で買うという行動をそのまま労働にあてはめている。
 すてきなお店で、とっても感じのいい店員さんにすすめてもらって、自分のためのものだと確信をもって買って、ほどくときにもう一度うれしくなるパッケージで包んでもらって、それを抱きしめて帰るみたいなお買い物を、知らないんでしょうかねえ。私がそう訊くと、そういうのは僕もよく知らないけど、と武田さんは笑う。でもそう、彼らは知らないのです。つまり、端的に貧しい。富める者の義務として、彼らを黙殺することですね。はあいと私はこたえ、それから私たちはほとんど同じタイミングで、ごちそうさまのしぐさをする。

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