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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ビーバーもしくはそれに相当するもの

 結婚するのだけれども、面倒なので披露宴はしない、と友人は言い、ではということで、彼女を愛する友人一同の手により、一次会なしの二次会のような場が設けられることになった。友人は人気者なのだ。
 美智子がお世話になっておりますと知らない男の人が言うので、いえいえそんなと私たちはこたえて、それから誰何の目で彼を見る。兄ですと彼は名乗る。そう言われてみればほんのりと、今日の主役に似ているような気もした。かわうそのメールの方ですかと私はたずね、彼は少しだけ目を大きくしてからそれをうんと細くして、美智子のやつたしかに「みんな受けた」と言ってましたねえとこたえた。彼女の新居に招かれて手料理をごちそうになっていたら、スマートフォンを手にした彼女がお兄ちゃん、と言ってげらげら笑ってそれを見せてくれたのだった。「ところで明日から仲間たちと韓国に行きます。主な目的はカワウソです」と、そこには書かれていた。
 彼は動物園に勤務しており、ビーバーなどの展示を担当している。ビーバーというのは実によくものをかじるのでして、と彼は言う。なにしろダムを造る生き物です。僕は彼らのために毎朝、大きな木を与えてやるのですが、夕方にはもとの形をしていません。とても勤勉です。どこへも行けないのに。閉じこめられて、なんにもしなくたって、限界まで死なせてもらえないのに。僕もだんだん勤勉になってきました。担当している動物に、動物園の人間は似てくるのです。顔もほら、似ているでしょう。彼はそのように話し、私たちは笑う。彼のつぶらな瞳と小ぶりの口はたしかに、わずかばかり齧歯類を思わせた。
 もう少ししたら彼はドイツに渡る。ビーバーについて学ぶため、職場の命令により派遣されていくのだ。ドイツはビーバーについて世界でいちばん多くの知恵をたくわえた国で、彼が知るべきことはいくらでもあるのだった。彼は現在必死に英語を勉強しており(ドイツ語は必要ないと、上司から言われていた)、それから、彼のビーバーたちについての貴重なデータをまとめて、その見せかたについて検討を重ねている。なぜなら彼のビーバーに関する話を聞きたい人がたくさんいるからだ。そのふるまい、その成長、その繁殖、その衰えと死の詳細について。
 彼の渡航予定の日からおよそ三ヶ月あとに、世界中からビーバーの専門家たちがその町をおとずれ、大きな会議を開くことになっている。彼もそこで発表をする。彼の勤勉なねずみたちについて。遠い遠い東京でごく小さい群れをつくって生きている、とらわれのビーバーたちについて。人々はビーバーに関する有益な情報を交換し、ビーバーに関する専門的な議論をたたかわせ、ビーバーに関するこまやかな感情を共有する。会場のコンピュータにはビーバーに関する数字と画像と映像と音声がぎっしり詰まっている。広い会場のすべての人がビーバーについて考えている。ビーバーのあらゆる側面について。その会議は三日にわたって開催される。
 お話みたい、と私は言う。周囲の人々もうなずく。そんなのって、なんだか、ファンタジィです。僕にはあらゆる意味で現実なのですが、と彼は言う。でも他人から見たら、そうなんでしょうね。他の仕事をしている人は、しばしば物語の住人のように見えます。たとえば毎朝決まった時間に都心の巨大なインテリジェントビルに行って、エレベータの前で行列をつくるようなこと。並んでいる人たちはぴかぴかの服を着て、女の人ははてしなく凝った化粧をして、男はひげなんかはじめからなかったみたいに剃っていて、みんなとてもきれいだ。彼らが礼儀正しく並んでいるエレベータは高層階行きの「急行」と低層階行きの「各駅」にわかれている。そんなのって、おとぎ話ですよ、僕にとっては。
 ビーバーに相当するもの、と私は言う。ビーバーに相当するものですと彼は言う。ビーバーの話がうつくしいのは動物園の仕事を愛する人がそれを語っているからだと思います。私がそのように言うと彼はひっそりと笑い、言うまでもなく、好きなばかりではないですが、とこたえる。私はもちろんうなずく。けれどもそれは基本的に祝福すべきことです。僕がビーバーたちの世話をして生きているということは。ごくひかえめな、おそらくは一匹のビーバーがそうであるようなようすで、彼は言う。そういう人の話を聞くのが好きなんですよと私は説明する。そういう人の、それぞれの、ビーバーもしくはそれに相当するものに関する話を。