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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

スタディ・アフェア

 研修の知らせがあるとだいたい出席してるよねえ、と先輩が言う。マキノって暇なの。この先輩は先だって私のあずかる案件に突然発生した作業を夜半まで手伝ってくれた。私たちは顔を見合わせてにやりと笑い、暇なんですよと私はこたえる。いつもの仕事ばかりしていると、それがどんなに頭を使うものであっても、判断を要するものであっても、必死に努力していても、やっぱり、どこか、暇なんです。精神が退屈する。研修は、ふだんの仕事と直接関係しないものも多いから、好きなんです。そのときだけたのしんで、あとのこと考えなくってもいいから。タダっていうのもすてきです。私はそのように説明し、先輩は軽口をたたく。後腐れのないその日かぎりのお楽しみってやつね、悪いオトナだわ。
 終業後に設定された研修の前半が終わり、休憩時間にぼんやりしていると、講師役が会釈する。今日の研修の主催は社内の他部署で、講師はそこの人で、だから顔見知りだった。参加の動機を、彼はたずねる。暇だったからと私は思う。思いながら、ふだんとちがう刺激がほしかったのでとこたえる。刺激になりそうですかと彼は尋ねる。そうですねと私はこたえる。ワークショップ形式って、聞きっぱなしにならないから、いいですね、提供する側はたいへんだと思いますが。たいへんならいいんですがぜんぜんたいへんではない、と彼はこたえる。僕はこういうのに、すっかり慣れていて、ちっともたいへんではなくって、一生懸命やってはいますが、同時に、とても、退屈です。
 みんな忙しいのにみんな退屈なんだなと私は思う。私も精神が暇だから来ましたと言う。そういう意味のことをおっしゃっていましたねと彼は言う。私は軽い説明兼冗談を加える。うちの部署の池谷という者が、今夜みたいな私の勉強を、後腐れのないその場かぎりの遊びだって言うんです。スタディ・アフェア、と彼は返して、僕もしたい、と言う。意外といいかもしれない、突然関係ないこと、勉強するのって。社内研修の場合、関係ないと言い切るのもあれなんですけど、と私はいちおう言っておく。人々が席に着きはじめる。
 研修が終わる。ありがとうございましたと声をかけて戻ってきたことばはどういたしましてではなかった。僕は退屈ですよ、マキノさん。なにがいいと思いますか。中国語?トランペット?iPhoneアプリの開発?私は長机に軽く腰を預けて出て行く人々をやりすごす。彼はホワイトボードを拭いている。今日の先生役のよく似合う善良そうで控えめな容姿のなかに焦げつくような倦怠がひたひたと満ちていて、動作のたびに不吉なさざなみをたてているように思われた。
 なんでもできそうですねと私はこたえる。語学でも楽器でもなんでも、ちょっと勉強したら、それなりにできそうな印象があります。できますと彼は言う。あるところまでは簡単で、それ以上は突然困難になるから続けるのが難しい、それで、手を出したらよけいに退屈になりそうで、ちょっと怖い。私は笑って提案する。そしたら、もっと些末なことになさったほうがいいですよ。たとえばと彼は言って余った資料をひとつにまとめる。そうですねえ、私の知りあいが、お正月休みに暇だったからという理由で、ムーンウォークができるようになりました。彼は笑い、愉快な人だと言う。可愛い人ですよと私はこたえる。そういうかわいげって、けっこうだいじだと思います。そんなにかわいくするのはためらわれますねと彼はこたえる。
 ではとっておきの、私があんまり退屈だとすることを教えてあげましょう。私は言う。私はあんまり退屈になると、部屋の中でひとりでぐるぐる回ります、長いこと、なるべく同じ速さで、足下がふらつく直前まで。そうしてそのままベッドに倒れます。目をあけていると天井がぐるぐる回ります。すごいなあと思いますよ、毎回ちゃんとぐるぐる回るうえに、回りかたを覚えておくことができない。しかも一点を見つめて回転を追いかけようとしてもぜったいにできないんです。回っているときの私は確実に退屈してないですね。ちなみにこの退屈しのぎを編みだしたのは五歳のときです。
 彼はひどく笑って、ばかですねえと言った。はいと私はこたえた。私たちのなかにはばかがいるので、ときどき出してあげたほうがいいです。ばかはあまり、退屈をしないです。退屈に関する講座はこれでおしまいです。本日はありがとうございました。先ほどの彼のまねをして私は言い、彼の会釈を待ってその部屋を出る。少しだけ退屈がまぎれたように見えたから、よかったと思う。