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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたの高貴な仕事

 フロアのちがう部署に電話をかけると、なんだかずいぶん長いこと呼び出し音が鳴っていた。知っている声が出て、わあ、マキノさん、と言う。顔見知りの、すれ違うと用がなくてもにこにこして近寄ってきて他愛ない話を少しだけしていくような、可愛い人だった。相手が私だからそうするというのではなくて、多くの人に彼女はそうなのだった。あの愛想のいいお嬢さん、と私の先輩なんかは言うけれども、ほんとうは社歴も長くって、その呼称が似つかわしいキャリアの持ち主ではなかった。彼女は華やかな声で、私のつないでほしかった人を呼んだ。
 彼女の所属する部署のリーダをつとめる同僚を見つけて、内線、減ったの、と訊くと、減らした、と彼はこたえる。夜中で、自動販売機のところに私たちはいて、だからまずはそれぞれが飲みものを買ってプルタブを引く。大きい音、と私は思う。大きくて、なんだか大げさだ。美味しそうに聞こえるように、きっとデザインされているんだ。音デザイナだとか、そういう人種に。そうして魅力的にプレゼンテーションされて重々しく採用されて、その価格がこの百二十円にふくまれている。私はそのような妄想を口にする。彼は小さく笑い、それから話しはじめる。ちょっとした組織改編があって、フロア内の座席がずいぶんと変わった。そのうち各自のSkypeアカウントが社内に回るから、うちにはそれでかけてもらいたいんだ。だって内線とか、あんまり要らない、だからうちが要りませんって先に示せばいいかなって。僕そういうの好きなんだ、ダイエット的なことがさ。
 とはいえ外部には電話でなくては、という人もいる。一台だけ電話機を残そうと彼は思った。少し考え、部署のなかからひとりを選んで、そのデスクに電話機を配置した。デスクの持ち主が電話に出ないことに気づくのに、時間はかからなかった。電話が延々と鳴り、彼がそれに気づいて視線を向けると、どういうわけか電話のあるデスクの斜め前に座っている社員がえらく不自然な姿勢でそれを取り、にこにこと応対しているのだった。バレリーナみたいに、片足をちいさく上げて、それでバランスをとっていた。
 彼は電話の音に対する注意力の配分を少し増加させた。電話が鳴るとすぐに、デスクの持ち主をさりげなく視界の端に置いた。デスクの持ち主は不在なのではなかった。きちんとそこにいた。そんなはずはないのに、まるで呼び出し音が聞こえていないみたいだ。彼は思い、それからそれを訂正する。いや、聞こえていないほど自然なようすではない。そこにはわずかな緊張感がある。緊張感?いらだちかもしれない。なにか、些末で不当な目に遭っているのを、さりげなくこらえているような。
 それで結局斜め前の彼女が電話取ったんだよねと私は確認する。彼はうなずく。それって何回も、おんなじように繰りかえされたの。再度の確認に、やはり彼はうなずく。よくわかんないよと私は言う。その人物はね、と彼は注意深く特定を避けた言い回しを使う。怒っていたんだ。私はぽかんとする。彼は続ける。自分が電話番なんかやらされるのはおかしいと、そう思っていたんだろう。別の席の人間が変な格好までして取ってやったってお礼なんか言わない。「自分の仕事をしてもらった」わけじゃないから。
 そうかあ。私の回答はばかみたいに聞こえるから、私は少しはずかしい。僕もちょっとびっくりした、と彼は言う。自分の感覚とかなりかけ離れているから。でもその人にはあるんだ、作業内容の貴賤みたいなものが。年末の納会の前、みんなで掃除するよね、あのときぼんやりしていたのを思い出した、何していいかわかんないのかな、ずっと実家住まいだもんなって思って、でもたぶん、そうじゃなかったんだ。なんで掃除なんかさせられなきゃならないんだって、そう思って、終わるのを待っていたんだろう。私はそれを聞いて、軍手やぞうきんを持参して得意げにそれを見せてくれた自分の部署の仲間を思い出し、どうしてか少し、かなしい気持ちになった。それは同じ会社にいる誰かに、下賤な作業としてあつかわれていた。
 彼は空き缶を軽く握って金属の音をたて、それを捨てる。私も捨てる。歩きながら、その人のデスクに電話を置いたのはなぜと尋ねる。外と連絡をたくさんする仕事をやってもらう可能性が高かったから、と彼はこたえる。うん、ちょっと大きいやつ。そのうち話す、けっこうすてきな話だ。でも電話は、どうやらそれに向かない人のところにあったみたいだから、別の人のところに、もう移しておいたよ。