傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

だめって言って

 後輩はかぶと虫を観察する小学生のようにしげしげと私をながめ、マキノさんが弱ってる、とつぶやいた。なぜわかると問うと、しおらしい、と即答する。憎たらしい。
 実際のところ私は弱っていた。最終局面でひっくり返された仕事のかたまりを目の前にしてすべきことがわからないほど未熟ではないにせよ、すべきことに含まれる判断の回数と作業の量にうろたえないほど訓練されてもいなかった。私はそれを計測し、朝までにはなんとかなるかもしれない、と思う。同じ案件にアサインされている先輩を途中で帰すこともできるんじゃないかと思う。
 その先輩が、珍しい、と口をはさんで声を一オクターブ上げ、ねぇミホちゃん助けてぇ、と続ける。当年とって四十二のごつい中年にして心にオカマを持つ男であるところの彼は、自称女子力が強いために甘えることを躊躇しない。もうだめぇ、あんな無茶ぶりされて、マキノさんもあたしも死んじゃう。
 イケタニさんもマキノさんも仕事ごときで死にません。そんなかわいげのある人格ではない。後輩は即答し、しかし手伝ってさしあげましょうとこたえて帰り支度を解く。今の段階なら五割は単純作業ですよね、アウトソースしちゃえますよね。私は彼女に注意を与える。あなたの担当じゃないでしょう。もっとキャリアの足しになる仕事をしなさい。ちょっとお。先輩は甲高い声を出した次の瞬間それに飽き、くたびれた男に戻って、めんどくせえなあ、と言う。事態は変わったんだ、正しい判断をしろ。あとで上に許可とればいいだけの話じゃないか。
 先輩が判断すればいいじゃないですかと言いたくて、でも言えない。責任は私にある。先輩はたまたま手持ちの仕事に隙間があいただけの補助要員で、山場を超えたら手を振って自分の舞台に戻ってしまう。私は彼女に頭を下げる。どうもありがとう。とても助かります。
 二時間が過ぎて、頭を使う部分がなくなり、ファイルの上っ面を整えながら先輩が言う。なにはともあれ露骨に弱るようになったのはいいことにちがいない。作業を続けながら私は回答する。いや昔から露骨に弱りますけど。あんま、わかんなかった、と先輩は言う。デフォルト意地っぱりですよ、マキノさんは。
 全員でばたばたとPCを閉じ、自販機から取り出した缶で乾杯する。仕事に感情をまじえるな、なんて、まったくばかな話でね、と先輩は言う。仕事の半分は感情で動く。感情労働という意味でもそうだし、自分を動かすという意味でも、人を動かすという意味でも。そしてそれはある程度の衣服をつけてさえいたら表情が見えたほうがいいものだ。感情の語彙を持たないハードボイルドは短期的にしか利益をもたらさない。
 私そういうの得意じゃないんですよねと後輩が言って私の顔を見る。マキノさんそういう手順、どうせ言語化してるでしょ。どうせ私はなんでも言語化すると私はぼやいて回答する。第一の段階はそれを自覚すること。きちんと手の中におさめて隅々まで観察すること。怒っているとか途方にくれているとか、そんな騒がしいものどもを。それからそれを自分ひとりで処理できるか量る。正しく計量する。できない、もしくはできるけど犠牲が大きくって割に合わないと思ったら誰かに助けを求める。助けられるだけの価値が自分にあると思わないならそれがまちがっていないかもういっぺん考えたほうがいい。
 先輩は途中からにやにや笑いだして言う。わかってんならとっととやれや。うるさいやいと私は思う。徹夜なんかろくなもんじゃないと彼は言う。徹夜してどうにかなるのは作業だけで、そのためにそこなわれた感情は必ず存在しつづける。職場そのものに対する傷つきの感覚。そんなのわざわざ自分でつくりだすことはないんだ、助けてって言ったらいいんだ。おおよしよしのひとことで済むことだってあるんだ。言ってだめならそのとき傷つけばいいんで、あらかじめ勝手に傷ついているのはただのばかだ。言わないのは大人なんじゃなくて弱いんだ。もうだめって言ったらいいよ、むしろ言ってよ、じゃないと俺だけばかみたいだ。
 だからオカマがいるんですかと後輩が尋ねる。私たちはタクシーに相乗りしている。そうねと彼はこたえる。人並みに男性としての抑圧を受けておりますので。いや趣味でしょうよと彼女は返し、彼はひどく笑う。ああそうだよ趣味だよ。だから使ってもらうのはかまわないんだけど、伝達のアウトソースはほどほどにしなさいよ。俺がミホちゃんに助けてって言うの期待してたんでしょ。助手席の彼は私を振り返ってそのように諭し、私は完全にふくれて、うるさいやい、とこたえる。