傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

はちみつの灯りをともす

 ごめん今日は飲めない、というメールを受け取って、また今度ねと私は返信する。飲めないのは酒とかコーヒーだけだと返信が返ってくる。だから行く。妊娠、と反射的に思って相手が男性であることを私は思い出す。体調の悪い人を酒場に連れていくものじゃないけど、と私は書いて送る。でもうちの近所で二十二時に待ち合わせると、ほかに選択肢がないんだ、ごめんね。日付けが変わるまでひらいている気の利いたカフェがあればいいんだけど、そんなのはないし、なんならロッテリアがもう閉まっちゃうの。歩きながら私はそのように話す。
 妙な注文ですみませんねえと、お店の人に私は言う。彼女はにっこりと笑う。いいえ、夜のホットミルクはいいものです。お礼といってはなんですけど、これ。あらあ、電球ですか、かわいい。電球入りはちみつ、先週温泉行ったら駅のキオスクで売ってて。ありがとうございます、きっときれいな灯りだわ。でもワット数低そう。低くっていいんですよ、マキノさん、夜は暗いものです。
 きゃあきゃあ話しながら視界を動かすと、その隅の彼は目の周囲の皮膚を一段薄くしたように見える。お持たせですがと置かれたはちみつ入りのショットグラスをカップに向かって慎重に傾ける。そうして、今や糖分の調整にさえ注意を要する、と言う。摂り過ぎるとなんていうか胃の内側を剣山でぽんぽん叩かれているみたいになるんだ、ちょっとあとに。
 仕事休んで寝てなよと私は言った。しかも私とかまじでどうでもいいじゃん。人と話さないでいると俺の精神が死ぬと彼は即答した。それから仕事をしないと俺の経済が死ぬ。死なないと私は断定する。友だちは人生のオプションにすぎないし、仕事にはいつだって代わりがいて、いくらかの療養くらい許容できないはずがない。
 自分たちの仕事で世界を変えるとか言ってたくせにさあ、と彼は私を嘲笑う。マキノ、大真面目にばかみたいなこと、言ってたくせに、他人には平気で休めとか言うわけ。変えるよと私はこたえる。ばかみたいだけど、私はそのつもりです、でも私には絶対に代わりがいるし、私の仕事なんか実際のところゴミみたいなもんだし、私は休んでもいい。それが両立するのではどうしていけないの。私、休むよ、こないだそう決めたんだ。会いたい人みんなと会う。みんなと、ごはん食べるし、コーヒーもお酒も飲むし、旅行にだって行く。誰かとたった二時間話そうと思って実行するまでどうかすると二ヶ月とかかかるんだよ、そんなのどう考えても正しい人生じゃない。
 それが正しい人生だと思ったほうがどれだけ楽かしれないと彼は言う。俺が休めないのはね、ご指摘のとおり職場のせいじゃない。俺はただ自分が休めないほど有用な人間なんだって、そう思いたいだけなんだ。痛む胃を抱えて引退した老人みたいに日がなぼんやりしているのが怖いだけなんだ。休めないでしょう、たいへんだねって、そう言ってほしいだけなんだ。たとえば遠くで働いていて一緒に住めない奥さんだとか、めいっぱい見栄をはってみせている同僚だとか、たまに話す昔の同級生なんかに。
 私は胸を衝かれてごめんなさいとつぶやく。休めないはずがないなんて言ってごめんなさい。いいんだと彼はこたえる。そんなのとっくに知ってるから。正しければいいというものではないよと私は小さい声を出す。たまに会う友だちくらいはせめて、たいへんだね、休めないんでしょうって、そう言うべきだったんだよ。それが嘘だなんて、ほんとうにどうだっていいことじゃないか。
 その幸福は選ばないと彼は言う。マキノだってさっきそう言った。会いたい人に会って、休みを休んで、暇だなあってぼやいていよう。胃が痛くなってから、どうしてかそういう気がする。みんなに夜はあって、ないふりをすべきじゃない。私はかなしい気持ちのまま、どうもありがとうと言う。彼の人生の夜について考える。薄い友人である私には明かされることのないそれについて九十九の仮説を立て、それらをすべて棄却する。
 夜は暗いものです。彼はさっきの別人のせりふをその調子ごと再現してみせて、それから自分の口調に戻る。蛍光灯なんてくそくらえだ、夜中のオフィスはいつだって偽物の昼間みたいだ。暗くなったら暗いままでいてなにが悪い。ミルクのんで寝てりゃいいんだ。誰かと話すときだけはちみつの入った電球をつけて、あとはなんにもいらない。それが正しいんだ。
 ホットミルクは悪くないと彼は言う。適量のはちみつだって入ってる。そういうのってたとえば胃が痛い人間にじゃないとわからないんだ。私は少し安心してこたえる。そうだね、夜は暗いものだものね。

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