傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

客体化の結末

 来いと言えば来る。来るなと言えば来ない。やさしくしてやると素直に喜ぶ。冷たくすることはない。冷たくする動機がない。放っておくことはある。忙しいとか、忘れているとか、そんなような理由で。そうすると向こうから短い連絡が入る。ご機嫌伺い、と彼女は思う。そうして返信する。日数単位で決められた定量的な基準があって、それを超えて放っておくといなくなる。そういう気がした。
 彼女がつくりあげた箱庭のような人生に傷をつけない。不確定要素を持ちこまない。彼女の嫌いなことについては何度かサインを出すとよく学習してほとんど繰りかえさない。安定している。いろいろなことのプロセスから小さい棘を丁寧に取り除いて整然と分類して倉庫に仕舞って必要なときすみやかに取り出して使用する。
 そのような男だ、と彼女は思う。来いとか来るなといった物言いを、彼女がじかに口にすることはない。もっと丁重なことばを使う。彼女は礼儀を心得ているし、多少体調が悪くたって過労気味だって、その運用を誤ることはない。けれどもそれはただの衣服にすぎないので、剥がせば要するに来い、来るなと、そう言っている。言われる側は衣服の重要性を認識してはいてもそれを本体と取り違えるほど愚かな男ではないので、来いと来るなを誤って受信することはなかった。それどころか来いを先取りして行きたいと言ってみせるだけの技術だってそなえていた。立てろとかいう幼稚な要求の気配も見られなかった。私がそうするのは物理的にだけだ、と彼女は思っていて、だから彼は、総じてひどく好都合だった。
 あなたの恋人、と友人が言ったとき、彼女は奇妙な気分に陥った。うん恋人、あのひと、と友人は繰りかえした。あの人。彼女の奇妙な気分は深まり、友人はぽかんと口をあけて、なんだか左右を見た。ちょっとマキノその癖ばかみたいだからやめなさい、それからちゃんと髪をトリートメントしなさい、切れ毛がいっぱい出てるじゃないの、アホ毛っていうのよ、マキノにぴったりだわよ。彼女は小言を言いながら友人の髪を両手で押さえてやる。そこに白髪を二本みつけて、順番に抜いてやる。友人はされるままになって気持ちよさそうに笑っている。されるのって、いいねえ。そんなことを言う。されたいことされるのって気分、いいよねえ。安心な人に頭さわられるの、私すごく好き。
 彼女はなぜだかひやりとして、マキノにサービスしてやったんじゃないと言う。私が勝手にやったんだと言う。知ってるようと友人はこたえる。そんなの、サービスじゃないから、いいんじゃないか。サービスじゃないことされて、それで気持ちいいのって、最高じゃん。サービスはお店に行って買うよ。美容院の人も白髪とってくれるよ。抜かないで切るんだけど。
 彼はそうじゃないと彼女は言う。彼はサービスしていると言う。それから喉の奥に残ったことばの微動を感じる。友人はある種の洞窟を思わせる無作為の顔をして彼女を視ている。彼女のことばはそこに向かってひとつ残らず落ちていく。
 彼は私の需要をちゃんとわかってる。わかっていて満たしている。そうじゃないものは彼にはない。だって私は彼を私の需要を満たすものだと思っているから。でも彼はそのようなものであることを望んでいるのよ。私はそれをかぎつけていたのかもしれなくて、ううん、きっとそう、それで彼をモノとして使用していて、だから。
 だから恋人ではない。そもそものはじめから、恋人ではなかった。恋をしていない。それに人ではない。あの男は、私の、欲望の鏡でしかなかった。一秒だって、ままならない他人であったことがなかった。合わせ鏡。
 洞窟が閉じる。R.D.レイン、と知らない誰かの名を口にして、だから、どうしよう、と友人はささやく。スマートフォンを、彼女は操作する。別れた、と言う。はや、と友人はばかみたいな顔に戻ってばかみたいな二文字を口にする。別れるって、もうちょっとこう、なんかさあ、あるんじゃないの、いろいろ。彼女は断定する。ない。だってあの男は恋人ではなかったから。人ではなかったから。スマートフォンが光る。今までありがとう。それみたことかと彼女は思う。続きが出現する。って、言って。
 強度のきわめて高い笑いを彼女は笑う。すばやく返信する。やだ。なんでと彼は問う。なんとなくと彼女はこたえる。それが彼らの最後の通信であることを、彼女は知っている。彼女はもう一度底抜けの笑いを笑って宣言する。あの人、とうとう、人の馬脚をあらわした。