傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

プレパラート・テスティング

 さっきまでグラスだったものを、彼は見る。代わりを買いに行くのが面倒だと思う。それが自分の手を滑りおちた原因を、彼は把握していない。彼のてのひらの感覚はどこか遠く、それは今にはじまったことではない。のろのろと彼は破片を集める。紙の袋に入れる。あっと声をあげて反射的にガラスの破片の散らばった場所と反対の側にからだを落とす。左足に刺さった破片を、舌打ちして抜いた。いまいましかった。絆創膏なんか持っていなかった。片足で歩いているつもりでよろけて、床に血の跡がついた。もう一度舌打ちをして、怪我の処置のための商品が置いてあるコンビニエンスストアを思いうかべた。それはとても遠いもののように思われた。そこにたどり着くことはとうていできない、無茶な相談みたいな気がした。足にタオルを巻いて彼は、泥のように眠った。
 そんなわけで腫れちゃったんだと彼は話す。めんどくさくてさあ。今朝コンビニでマキロンと絆創膏のでかいのを買ったんだけど、時すでに遅し、靴に入らない。押しこむとけっこう痛い。でも仕事に支障はない、歩くことだってできるし。一回病院に行ったほうがいいよ、破傷風とか怖いし。私がそう忠告すると彼はつまらない冗談を聞いたように笑う。私は少し困って同席している人々を見わたす。
 よろしい、ではテストをしよう。芝居がかった仕草で私たちの目を引き、小さい四角を、彼女は空に描く。ここにプレパラートがあります。それから十一歳の女の子がいます。理科の実験をしている。なにしろ子どもなので不注意でプレパラートを割ってしまう。あなたは先生です。なんと言いますか。
 怪我はないか訊くと彼はこたえる。あと割れたガラスに触るなって言う。よろしいと彼女はこたえる。ゆうべ割っちゃったグラスはどうしましたかと、彼女は質問を重ねる。ゴミに出したよと彼はこたえる。紙袋を三重にして「ガラス」って書いてさ。そうしないとゴミ回収の人がけがをするかもしれないものねと彼女は言い、彼は何を当たり前のことを言うんだというように首をかしげる。
 彼女は話す。まとも。あなたは実にまともです。そんな人間がどうして自分にだけはまともな扱いをしてあげないかちょっと考えたらいい。自分を正しく大切にできないくらい疲れているなら仕事の量なりプライベートの事情なりを調整すべきじゃないかな。そう思わない。彼はぽかんとして、それから、思う、とごく素直にこたえた。俺、ちょっと変かもしれない。痛いよりも苛々してた。ばかじゃねえかと思った。
 そのテストは彼女が十一歳の女の子だったときに開発された。理科の実験で割れたガラス板を見て彼女はひどく動揺し、これはいくらだろうと慌てて考えた。おばあちゃんからもらったお年玉がまだあると思った。なにやってんだと教師が言いごめんなさいごめんなさいと彼女は謝罪した。教師は彼女の手をガラスから遠ざけて渋い顔で点検し、おっけー、と言った。切れてないな。彼女は教師のすることをまったく理解できずにもう一度ごめんなさいと言った。べんしょうします。
 教師はなんだそりゃと言って変な顔をした。ガラスをなめちゃいかん。近ごろの子はけっこう大きくなっても危ないことをよく知らないから困る。いいかあ、ガラスの割れたのが刺さると、痛いぞお。小さいのがもぐりこんだら、上から切って取らなくちゃいけないんだ。すごおく痛いんだ。わかったか。わかりましたと彼女はこたえた。なんだかわからないけれど、ちょっと泣きそうだった。教師はさっさとガラスの破片を始末して、ざわついた教室を大きな声で制御した。
 つまりそのときに、ちっぽけなガラス板一枚のほうを気にする感覚は異常だと気づいたわけだね。私は尋ね、彼女はうなずく。いいテスト、と私は言う。とても単純だけどねと彼女はこたえる。でも私ときどきこのテストをしてみるの。私たちはちょっと間違えるとすぐ自分を粗末にあつかってしまうから。割れたグラスなんかより、自分のほうがよほど大切なのに、グラスのことを先に考えてしまう。それは間違ってる。
 私たちは彼女を見る。彼女はにっこりと笑う。もちろん私たちはこの複雑な世界で日々たたかうけなげな大人であるからして、間違うくらい疲れちゃうのもよくあることだよ。でもね、間違った気持ちはさっさと把握して、とっとといたわらないとだめ。そこまで自分でちゃんとやってあげないとね、もう理科の先生もいないことだし。彼ははあいと、小学生の口調をつくってこたえる。すごおく痛いんだぞおと、歌うように彼女は言う。

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