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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あの日チャールズ・リバーで

 冷気が壁沿いにすべり落ちてくる。増えながらすべり落ちて、床にたまる。ひたひたと上昇したそれに彼女は溺れて目を覚ました。暖房の効力がまるで追いついていない。なんだって私はこんなところにいるんだろうと彼女は思う。なんだって、こんな、ひどいところに、たったひとりで。
 彼女の暮らす北米の都市には何年かに一度、強い寒波がやってくる。留学四年目ではじめて体験する華氏マイナスの夜更けだった。ルームシェアの相手が国に帰って体温を発するものが自分よりほかにない。台所でお湯を沸かしながら非効率的に巨大なオーブンを彼女は見る。そうだ、これに火をつけてふたをあけておこう。
 私には能力が足りない。彼女は唐突に思う。正確には、思いかえす。一度考えたことがそのままの筋道で何度かフラッシュバックしていることを彼女は自覚している。物理学では食べていかれないと気づくのが一年遅かった。修士課程に上がる試験をパスしてから気づくなんて実に間抜けだ。なにも自分を天才だと思っていたのではない。端のほうにぶら下がっていればいいやと思っていた。でもそれにだって足りない。日本の就職活動はよくわからない複雑な儀式みたいになっていて、戻ってそれをこなすことが自分にできるとはどうしても思われなかった。この年次でも軽々と専攻や進路を変えて平然としている人間もいる。でも私はそうではない。そのように考えて彼女はつぶやく。彼らは選択している。私は敗北している。
 このせりふを反芻するのは何度目かなと思う。何度目でも同じだとも思う。オーブンに、彼女は火をつけない。火災の可能性を除いてもうっすら不吉な気がした。壁からしみ出す冷気から遠ざかるために部屋の真ん中に引きずったベッドがすでに、かすかに奇妙なのだ。これ以上の異様さを、この部屋にもたらすわけにはいかなかった。オーブンを高温で焚いて、その扉を開けて、生の火の温度を浴びて眠ろうだなんて、どうしたってまともな挙動ではない。そこまで考えて意外、と彼女は小さく口に出す。彼女は自分について、たとえば極端に寒いときには躊躇なくすべての熱源を最大の効率で利用する種類の人間だと、そんなふうに思っていた。
 空の遠いところが破けたみたいに白んでいた。彼女は体温を上げるために足踏みをし、それから思い立って、自分に手早く厚着をほどこす。ダウンの長いコートの襟元の金具にマフラーをかぶせる。彼女はその作業を、あらかじめ決められた儀式のように遂行した。滑り止めのついた靴はやけに硬く感じられた。彼女は丁寧に靴紐をはずし、触覚の鈍った足をそこに格納し、ふたたび紐を結んだ。このところ長く去っていたある種の感覚が戻っていることを彼女は感じていた。夢中になっていて、力を発揮していて、しかも冷静で、どこかがリラックスしている。あれが戻って来たんだ。そう思って喜ぶのは、その外にあるときだ。中にいるときにはただ、その感覚に満たされている。彼女は扉をひらく。
 息を吸った鼻の奥が凍る音が聞こえた。彼女の注意力の八割は足に振りわけられていた。彼女は最適なバランスで歩道を踏みしめて歩いた。町は凍っていた。道が凍り、建物が凍り、標識が凍り、自動車が凍り、人は、いなかった。薄明かりの中にもう少し強い灯りが点々と落ちていて、その街灯もやっぱり、凍っていた。凍った大きな川のほとりで彼女は方角を変える。空の明かりの強いほうを選んで、川沿いの道を歩く。
 日が昇る。最初の強い光があらわれたとき、彼女は足を止める。彼女はそれを見つめる。白く凝る息の向こうにそれはあった。朝焼けは淡くおぼろだった。やがてそれは半円になり、少しずつ遠ざかりながら、完全な姿を見せた。彼女はもうなにも考えていなかった。彼女はただ外界のものごとを認識し、自分の内面を認識した。目頭から落ちる水滴が凍る前に、空中に散らした。悲しいのではなかった。敗北の言を繰りかえすことはもうないと彼女はわかっていた。それはただの事実であって、彼女を傷つけるものではなかった。

 わかんないなあと誰かが言った。なんで日の出みて泣いてなんか解決するわけ。私はそちらを見て場の雰囲気を壊さないぎりぎりの非難がましさをこめて言う。あのう、私、そういう因果とか、あと教訓っぽいものとか、そんなのって、この話には要らないと思います。言ってから彼女の顔を見ると彼女は機嫌良く笑って、いいじゃないですか教訓、と言った。私もわりと好きです。なんなら私の話にも適当な教訓をつけてくださって、かまわないんですよ。