傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

メンテナンスの日

 奇数月の最後の日曜日、彼女は友だちにメールを送る。今日なにが食べたい。少し間を置いてそれは戻ってくる。ぱりぱりのパン。あとなんか酸っぱいもの。了解と彼女は書いて送る。友だちがたんぱく質の欲求に鈍いことを彼女は知っているので赤身の勝った牛肉をあらかじめワインにひたしてある。
 さまざまな香辛料と調味料を順次くわえて彼女はそれを煮る。長いことではない。火を止め鍋が冷めるのにまかせて味をしみこませる。そのあいだ掃除機をかける。また火をつける。小蕪と三種のきのこをさっと焼いてレモンとりんご酢とハーブと塩を調合したマリネ液に漬ける。肉の鍋の火を止める。フランス系のパンを売る店をいくつか思い浮かべ、二番目に気に入っていてやはり二番目に近いところを選んで自転車を走らせる。ついでにやわらかく香りの強いチーズを買う。生で食べられる帆立の貝柱が安かったのでそれも買う。根を切って水にさらしたロメインレタスを軽くトスしてマリネに添える。インタフォンが鳴る。彼女は小さいフライパンとしても使っている卵焼き器にバターを落としてから古い集合住宅の古い電子錠を開ける。
 友だちは肩掛けのかばんをどさりと床に落としてバターのにおいと言う。思いきり短いショートパンツから伸びた健康な脚をつやつやのタイツに包んでそれを遠慮なく床に投げ出して彼女の部屋のただひとつの装飾品であるペンギンのぬいぐるみを撫でている。それから彼女のささやかなテーブルをみてにっこりと笑う。何度でも私たちはこうしているのにいつもとてもうれしそうだと彼女は思う。とても。喜びというものが今このときに生まれたみたいに。
 友だちは幼いころうんと気にしてぎちぎちに編んでいた、けれども今は意図的につくったようにさえ見える長いくせ毛をばさりと振って、入念に保冷したスペインのスパークリングワインを取りだす。午後のうつくしい日差しのなか、もうだいぶ前に来客が家主に贈った繊細なグラスを彼女たちは軽く掲げる。生存に。彼女たちの乾杯のせりふは決まっている。五年か十年か前のどちらかの冗談がきっかけだったことだけを、ふたりはおぼろげに覚えている。
 酔いがまわりきらないうちに友だちは彼女を寝台に横たえる。友だちは眉間に皺を立てて二種類のエッセンシャルオイルを選びそれを蒸散させる。同じものを落としたキャリアオイルを彼女の背に塗り圧力を加える。なに仕事きついの。訊かれて彼女はそうでもないと枕の隙間からこたえる。じゃあ新しいお友だちでもできた。「お」がついてる、と彼女は思ってすこし笑う。まあね。でもたいしたものじゃない。どうして。
 たいしたものであろうとなかろうと、と友だちは宣言し、ひときわ強く肩甲骨のあいだを押す。彼女はうめく。ろくに知らない人間と一緒に眠ろうとすると人体は損傷される。その緊張とその不自然さによって。そんなの当たり前のことじゃないか。そうなのかと彼女は思う。そんなので凝るの。凝ると友だちは断定する。あなたはそういうことに鈍すぎると叱る。彼女に言わせると自分のからだが欲する栄養を明確に感じ取ることのできない友だちこそ鈍い。でも今は言えない、と彼女は思う。だって、痛い。
 ひとしきり揉みほぐされてぐったりしている彼女を今度は座らせて友だちは小さな道具を並べる。彼女の手を取る。満足そうに言う。ちゃんと取れてるね。彼女は友だちの言うとおりの手順でもって爪の装飾品を落として数日のあいだ養分を与えている。友だちはその表面を磨き、ためつすがめつしながらかたちを整える。それが済むと彼女の指は彼女の知っている彼女の指よりしなやかに長く、なんだかいいものみたいに見える。いつものことだ。
 友だちが塗るジェルネイルはからだに悪そうな甘ったるいにおいがする。奇妙な青い光をそれに当てて化学反応を起こしながら友だちが言う。赤ワイン煮もよかったけどなにしろ今日は帆立が美味しかった。彼女は指先に影響しないよう注意深く肩をすくめる。あんなの生食用のを一瞬バターで焼いて岩塩とセロリの新芽を載せただけ。スーパーの生ものなんか外でいいのを食べるのに勝てるわけないの、でも表面を焼くだけでうんと美味しいの。そうかあと上の空で友だちはこたえる。この友だちは結婚しているけれども、料理というものを一切しない。
 いいなあいいなあと私が言うと彼女はマキノと藤井のほうが仲が良いと言う。私たち旅行とかしないし。それに藤井もあなたもごはん作るでしょ、お互い食べさせててうらやましい。そう言われて私は自分と自分の古い友だちの親密さが過度であるかのように感じて、なぜだかひどくうろたえてしまう。